聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2001]

2001年 02月 06日 (火)

ローマ人ヘノ手紙2:1-5
神様の慈愛と忍耐と寛容とを軽んじている者たち

Ⅰ.他人をさばく人よ(1-3)
 他人をさばく人は相手より道徳的に優れているという優越感を持っています。彼らは絶えず自分の義を主張します。しかし、彼らは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。なぜなら彼らは他人をさばきながら、自分で同じことをしているからです。このようなことをしている者たちを神様は真理に基づいてさばかれます。他人をさばくことは自分自身を神様の座にまで高ぶる罪悪です。
Ⅱ.あなたのかたくなさと悔い改めのない心のゆえに(4,5)
 神様は私たちが罪を犯したからといってすぐにさばかれるのではありません。神様はひとりの人が悔い改めて成熟した神様の人になるまで長く忍耐しておられます。神様は慈愛と寛容と忍耐が豊かな方です。しかし、ユダヤ人はこの神様の愛を悟りませんでした。むしろ、彼らは神様の愛を絶えず無視しました。それは彼らが自分は神様のさばきを免れるのだと思っていたからです。しかし、彼らはいくら正しく生活をしたとしても神様の御前では惨めな罪人にすぎません。
 人が主にあって霊的に成長すればするほど惨めな罪人であることを悟って悔い改めるようになりました。しかし、ユダヤ人たちはあまりにも高慢になって悔い改めることを知りませんでした。彼らはかたくなになって悔い改めない心のゆえに神様の御怒りを積み上げていました。

祈り:主よ!かたくなな心と悔い改めのない心は神様の御怒りを積み上げるだけです。私が日々悔い改める生活をするように助けてください。

一言:悔い改めない心は神様の御怒りを積み上げるだけです。



2001年 02月 07日 (水)

ローマ人ヘノ手紙2:6-16
神様の正しいさばき

Ⅰ.行ないに従って報いをお与えになる神様(6-11)
 ある人たちは「神様は愛であるのに、世を裁かれるか?」と思っています。しかし、神様は公義の方です。ですから神様のさばきは徹底的です。神様は一人一人に、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行なう者には永遠のいのちを与え、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。善を行なう者には栄光と誉れと平和があり、悪を行なうすべての者の上には患難と苦悩があります。神様は人を心の動機とその実を見てさばかれます。またその人の人生目的を見てさばかれます。
Ⅱ.隠れたことをさばかれる神様(12-16)
 神様のさばきは公義に基づいています。律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。律法を持ってない人々には彼らの良心と理性が律法の役割をします。彼らの良心が証拠となり彼らの思いを互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりして律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。そして、最後にはイエス様がさばき主となり、人々の隠れたことまでもさばかれます。人々はだれも見ない所で隠密に罪を犯します。しかし、その日には隠れたことが裸のまま現われます。その日にはすべての人が自分の行ないに従ってキリストの前でさばかれるようになるのです。

祈り:主よ!私が人生を自分勝手に生きていた罪悪を悔い改めます。私が義であられる神様の御前で恐れおののく心を持って生きるように助けてください。

一言:忍耐を持って善を行ないましょう



2001年 02月 08日 (木)

ローマ人ヘノ手紙2:17-27
自分自身を教えないのですか

Ⅰ.自分自身を教えない偽善者たち(17-25)
 ユダヤ人たちは律法と形式に捕らえられて神様を悲しませました。彼らは自分を義人と称し、律法を持つことに安んじ、神様を誇りました。彼らは盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任していました。しかし、彼らの実際の生活はめちゃくちゃでした。彼らは他人を教えましたが、自分自身を教えませんでした。「姦淫するな」と言いながら、自分は姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、自分は神殿の物をかすめました。彼らの偽善的な生活は神様を侮ることになりました。
 信仰生活を長くした人々はことばだけで自分を教えない場合が多くあります。そうなると、彼らは幼い信者と未信者たちに侮られ、結果的には神様も侮られるようになります。ですから、信者は自分自身がまず御言葉に従い、自分を教える生活をしなければなりません。
Ⅱ.形式主義に陥った者たち(26-29)
 パウロは律法を犯すユダヤ人たちの割礼は意味がないと主張しています。割礼とは神様の民になったしるしです。しかし、ユダヤ人たちは割礼を受けても神様の御言葉に従いませんでした。外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。彼らがこうなっているいのは神様の賞賛を求めるより人々に見せるためにしたからです。

祈り:主よ!偽善と形式主義によって神様を辱めていた罪を悔い改めます。私が自分を教え、神様の賞賛だけを求めます。

一言:日々自分自身を教えなさい。


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