聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2001]

2001年 02月 16日 (金)

ローマ人ヘノ手紙6:1-14
あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい

パウロは罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れると言いました(5:20)。これは律法が罪をもっと罪せしめることによって、キリストの恵みがもっと大きくなるという意味です。ある人はこの御言葉に基づいて“もっと大きい恵みが増し加わるために罪をもっと犯したほうがいい”と冗談で言います。しかし、私たち信者はそうすることが出来ません。
これは、私たちがキリストに結び合わせられて、バプテスマを受けた者たちだからです。バプテスマの霊的な意味は、キリストと連合するということです(3,4)。私達信者はキリストの死に連合して罪の支配を受けた昔の人が死に、キリストの復活に連合して新しい生命として生きかえられた者たちです。ですから、私達はこれ以上、自分を罪の奴隷としてはいけません。私たちは、私たちの手足を義の器として神に捧げるべきです(12,13)。
私たちの手足は兵器と同じです。誰が私達を使うかによって、その結果が違ってきます。罪が私達の手足を主管するものとなると、私たちは不義の兵器になります。
しかし、私達の手足を神様に捧げると義の兵器になって、神様の栄光を現し、生命を生かすのに貴く用いられるようになります。私達は、自分の手足を神様に献身すべきです。そうする時、罪は私達を主張できなくなり、私達は美しい生命の実を結ぶ義の道具になります。

祈り:主よ、私の手足を神様にささげます。私を義の器として貴く用いてください。

一言:私の手足は義の器



2001年 02月 17日 (土)

ローマ人ヘノ手紙6:15-23
義の奴隷としてささげなさい

Ⅰ.罪の奴隷となって死に至り(15-16)
私達は、律法の下ではなく、恵みの下に置かれるようになりました。ところが、私達は恵みの下にあるのだから罪を犯し、信仰によって罪の赦しを味えばいいのではないかと考えやすいです。これは非常に間違った考えです。罪に自分をささげ従順すると、罪の奴隷になります(16)。罪の奴隷になると自由を失い、恥ずかしい実を結ぶようになります。結局、死に至るようになります。ですから、恵みの下にあるとしても、自分を捧げることを恐れるべきです。
Ⅱ.義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい(17-23)
以前私達は罪の奴隷でした。しかし、福音を受け入れ、心から従順することによって罪の奴隷から開放されて義の奴隷となりました(17)。義の奴隷になった私達は、私達の手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進むべきです。これは神様の栄光を現すことを人生の目的とし、神様の御心を成し遂げるために自分の時間と物質と能力を捧げることを言います。このように神様の栄光のため自分を捧げると、私達は真の自由と幸福を味わい、霊的に成長し、永遠の命に至る聖なる実を結ぶようになります。

祈り:主よ、私が恵みを勝手に使い、罪を犯したことを悔い改めます。これからは私を義の奴隷として捧げ、聖なる実を結びます。

一言:今日も私の手足を義の奴隷として


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