聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2001]

2001年 02月 18日 (日)

ローマ人ヘノ手紙 7:1-6
新しい御霊によって仕えているのです

イエス・キリストを信じる信仰によって、義をとなされたにもかかわらず、過去のように律法に従って生きる人々がいます。このような者は、信仰生活に喜びがなく、自発性もなく、依存的であり弱くて神様に喜ばれる実もむすぶことが出来ません。私達信者は、これ以上律法的な人生を生きてはいけません。これは私たちが、律法に対して死んだからです。
私達は過去、律法氏と結婚して律法氏の要求を満足させようと励む女と同様でした。その時、私たちは常に律法の要求にこたえることが出来ず、罪に定められるようになりました。
律法氏に仕える生活は、私達を疲れさせ、反発心を持たせ、死の実を結ばせました。ところが、イエス様が私達の代わりに十字架で死なれました。そうすることによって、私達は律法の支配から逃れるようになりました。イエス様のこのような聖なる犠牲は、私達が恵みと愛の主イエス様のところに行って、神様のための聖なる実を結ばせる貴重な基礎になります(4)。
“今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから開放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです”(6)。信仰によって新しくなった者は、今は昔の律法の要求に従って生きてはなりません。そのかわりに、その中に生きておられる聖霊に従ってイエス・キリストを愛し、仕える人生を生きるべきです。このようにイエス・キリストを愛し、仕えるようになると、私達の中に神様が喜ばれる真の望みの実を結ぶようになります。

祈り:主よ、今は、古い律法に従って生きるのではなく、イエス様を愛し、仕え、実を結ぶ者になります。

一言:新しい御霊によって仕えます



2001年 02月 19日 (月)

ローマ人ヘノ手紙7:7-13
律法は聖なるものである

律法は私達に生命ではなく、むしろ死の実を結ばせるという、律法無用論を私達は主張しやすいものです。
しかし、律法は第一に罪を悟らせます(7)。欲は心の中にあるものなので、人々はそれを罪として認めません。しかし、神様は“むさぼってはならない”という律法を与えることによって、欲が罪であることを教えてくださいました。世は相対的であり、義に対する絶対基準がありません。律法は、このような人々に義に対する絶対基準となって、何が義であり、罪なのかを教えてくれる役割を持っています。
第二に、律法は私達をイエス様に導きます(8-13)。パウロは、むさぼりが罪であることを知ってからむさぼらないように励むようになりました。すると、もっと多いむさぼりがその中にあることが現れるようになりました(8)。戒めがなかった時は、自分が生き、罪は死んでいましたが、戒めが入ってくると、自分は死んで罪がもっと生きました。律法が罪を明らかにし、もっと罪深いものとしました。これはまるで私達がはじめに聖書を勉強すればするほど自分を罪人として発見することと同じです。しかし、このように自分の行為ではどうしても義人になり得ないことを知るようになると、謙遜に信仰による神様の義を受け入れるようになります。
ですから、律法は人を罪人とならせ、イエス様に導くために必要です。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです(12)。生まれ変わった私達は、律法の教えと精神とに従順し、教えるべきです。

祈り:主よ、私は信仰によって義と認められましたが、聖なる律法の教えに従順して霊的に成長する者にならせてください。

一言:律法の教えを受けるべきだ


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