聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2015]

2015年 10月 25日 (日)

Ⅰコリント15:1-11
福音の核心

 コリント教会は多くの複雑な問題を持っていて、パウロは今までそのような問題を解決しようとしました。そのような中で、パウロは彼らの信仰の基礎が弱いことを発見しました。それで福音の核心である復活の福音をもう一度教え、その福音を堅く守るように、命じました。パウロが前に、すでに伝えた福音の内容は具体的にどんなものでしょうか。福音の核心となる内容は、第一に、聖書の示すとおりに、キリストが私たちの罪のために死なれたことです。第二に、死んで後、葬られ、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことです。これは、私たちを滅亡に導く罪と死の力を打たれる神様の救いの御業の、決定的なできごとです。それで、私たちがこの福音を受け入れ、心に信じれば、罪と死から救いを受けるようになります。これは、私たちの人生において、最も決定的な転換期となります。
 ところで、私たちがこの大切な福音を、どのような根拠で信じ、確信することができるのでしょうか。確かな歴史的な証拠と証人たちの証しを通してです。よみがえられたイエス様はケパと十二弟子と五百人以上の兄弟たちとヤコブと使徒たち全部に現れました。パウロは、「最後に月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださったこと」を明かしています。彼らはよみがえられたイエス様に出会った後、みな変えられました。特に、パウロは神様の敵から、実が豊かな使徒であり、復活の福音を宣べ伝える証人として、変えられました。これは復活の福音の力であり、神様の恵みでした。

祈り:主よ!復活の福音の力で、私を変えて、主が用いられるしもべになるように、助けてください。

一言:復活の福音をつかもう!



2015年 10月 26日 (月)

Ⅰコリント15:12-19
もしキリストがよみがえらなかったのなら

 当時、コリントの聖徒たちの中には、死者の復活はない、と言っている人がいました。彼らは受けた福音を堅くつかむことができず、肉体の復活を否定するギリシャ思想の影響を受けていました。パウロは、彼らに、もし死者の復活がなければ、どのようになるのかを悟らせました。もし死者の復活がないとしたら、死者の復活であるキリストも復活しませんでした。すると福音の核心が否定され、福音を宣べ伝えるのはむなしくなります。また死者の復活がなければ、「神様がキリストをよみがえらせた」と言ったことは、神様の偽りの証人になることです。何より死者の復活がなく、キリストが再びよみがえらなかったのなら、キリストを信じる者はむなしい者となります。罪の問題も解決されません。永遠のいのちも、神様の御国もありません。それでキリストの中で死んだ者は滅びてしまいます。キリストを信じることで望みえることが、この世の全ての物であるとすれば、私たちは全ての人の中で、もっとも哀れな人たちになってしまいます。
 しかしイエス様は聖書の示すとおりに死者の中から三日目によみがえられました。数多くの弟子たちと証人たちに、確かな多くの証しによって、よみがえられたことが現されました。それだけではなく、その復活の力によって、私たちを救ってくださり、変えてくださいました。それで一番哀れな者は、死者の復活はないと言って、むなしい考えをする人々です。私たちは、死者の中からよみがえられたイエス様を堅く信じることで、復活の生きる望みの中で、生きなければなりません。

祈り:主よ!死者の復活を信じない世の中でも、私が主の復活を堅く信じて、生きるように助けてください。

一言:キリストはよみがえられた



2015年 10月 27日 (火)

Ⅰコリント15:20-34
死者はよみがえります

 キリストは死者の中からよみがえられたことによって、眠った者の初穂となられました。これは、死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人を通して来たからです。それで、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされました。さて、死者の復活はいつあるのでしょうか。まず初穂であるキリストです。次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。その後には、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様にお渡しになる最後のさばきの時です。その時、最後には敵である死も滅ぼされます。それで、罪によって死に処せられた万物の回復が成し遂げられるようになります。
 神様のこのような救いの御業の計画を考える時、死者の復活がないというのは、無駄な抵抗のようです。信じる者たちは、死者の復活が必ずあることを知っています。それで愛する人の死の前でも、悲しみに打ちひしがれていません。その当時には、死者のためにバプテスマを受ける者までいました。またパウロは、兄弟たちに、自分の誇りであると断言するほど、福音を伝えながら、日々死ぬいのちの危険に処せられていました。もし彼も、死者の復活がないと思っていたなら、明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか、ということになるのです。それでパウロは、死者の復活がないという悪い言葉にだまされずに、目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい、と教えています。

祈り:主よ!私が死者の復活があることを信じ、目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめるように、助けてください。

一言:復活信仰によって、日々死のう



2015年 10月 28日 (水)

Ⅰコリント15:35-49
どのようなからだで来るのか

 死者のからだが必ずあるのなら、死者が蘇えるときには、どんなからだで来るのでしょうか。私たちが植物の種をまいた時、その種が死ななければ、生かされません。ところがまく時には、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒だけです。すると神様がそのみこころに従って、その人に後のからだをお与えになりますが、おのおのの種にそれぞれふさわしいからだをお与えになります。これは、死者の復活も同様なこと、です。種をまくと、種とはまったく違った他の新しいからだを刈り取ります。このように神様は、私たちに、ご自分の御心に従って、新しい復活のからだを着せてくださいます。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされます。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされます。弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。私たちには、血肉のからだがあるのですから、御霊もからだもあるのです。
 どうしてこのようなことがあるのでしょうか。最初の人アダムは生きた者となり、地から出て、土で造られました。それで彼に属する者は、土で造られた者のからだといのちを持つようになりました。しかし最後のアダムであるイエス様は天から来られ、生かす御霊となりました。それで私たちのたましいをよみがえらされ、天に属する者のかたちである御霊のからだを、私たちにくださいます。私たちが栄光あるからだでよみがえることは、まさに、このイエス様に属しているからです。イエス様は、再び来られる時、栄光ある復活のからだを私たちにもくださいます。この時、私たちは完全なる人に、回復します。

祈り:主よ!イエス様が再び来られる時に、与えられる栄光ある新しいからだの望みを私の心に満たしてください。

一言:天に属する者のからだを慕い求めよ



2015年 10月 29日 (木)

Ⅰコリント15:50-58
復活の勝利、最後の勝利

 復活が、必ずなくてはならない、理由は何でしょうか。血肉のからだは神の国を相続できないからです。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないからです。神様は、私たちに永遠のいのちを得させようとする、絶対的な御旨がありました。そのためには、死者の復活は必ずなければなりません。このような死者の復活は、終わりのラッパが鳴り響く時、たちまち、一瞬のうちにみな変えられます。ここで、終わりのラッパとは、イエス様の再臨を知らせる、ラッパの音を指します。その時、キリストの中で死んだ聖徒たちの復活が先に起こります。次に、生きていて、イエス様の再臨を迎える聖徒たちがみな復活のからだに変えられます。
 その時、ついに「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。死は、それまで人類最大の敵でした。死の前では、誰でもみな悲しみの涙を流すしかありませんでした。しかしキリストの復活と再臨は、この死の力を完全に打ち砕きます。それで死は、永遠に滅びるようになります。それで、キリストを信じるクリスチャンたちは最後の敗北の代わりに、最後の勝利を得るようになります。それでこれを知っているクリスチャンは声高く叫びながら生きます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(55)。さらに進んで、これ以上、罪と律法に縛られずに、主イエス・キリストによって、勝利をくださった神様に感謝して、生きるようになります。また、復活信仰の上に堅く立って、動かされることなく、主のわざに励み、むなしいことがない人生を生きるようになります。

祈り:主よ!私が復活信仰に堅く立ち、感謝によって生き、いつも主のわざに励むように助けてください。

一言:復活の勝利を仰ぎ見よう


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