聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2021]

2021年 03月 26日 (金)

コリント人への手紙第一6:1-11(5)
兄弟の間を仲裁する賢い人

クリスチャン同士の問題は、神様の方法で解決されるべきです。 信者が世の法廷で仲間の信者を訴えることは恥ずべきことです。 兄弟間で問題が生じた時には、信頼できる先輩クリスチャンに相談し、仲裁してもらうべきです。 いつの日か、聖徒たちはイエス様とともに世界をさばくようになります。ですから、最も小さなクリスチャンでさえ、論争を解決できるような賢明さと分別する力を持つべきです。

パウロはまた、だまし取られたとしても、その損害を甘んじて受けるようにとも言っています(7,8)。コリント教会の聖徒たちは、互いに訴えて世の法廷で争うことで、もうすでに恥をさらしていました。これは教会として負けたということです。教会で争う理由は何でしょうか。互いに正しいと主張して損害を受けまいとするからです。このような彼らに、パウロは、むしろだまし取られるほうがましだと勧めています。

パウロは、神の国を受け継ぐことができない人々の種類を列挙しています。 淫らな行いをする者、貪欲な、同性愛者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者などが含まれています。その後、パウロは言います。「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした」。 クリスチャンの交わりは、イエス・キリストの血潮によってきれいに洗われた、赦された罪人の集まりです。私たちが主の偉大な恵みを思い出し、謙虚に賢く、そして祈りを込めて他の人を助けることが出来るように祈ります。 



適用:争いがありますか

一言:賢く仲裁



2021年 03月 27日 (土)

コリント人への手紙第一6:12-20(20)
自分の体をもって神の栄光を現しなさい

パウロはコリント教会の淫乱の問題に再び言及しています。彼らが淫乱を楽しむ理由は何ですか。一番目は、間違った思想のためです。ギリシャの二元論思想では霊と違って体は永遠の価値がないと考えて体では罪を犯しても大丈夫だと考えました。これはキリストが与えてくださった自由を間違って使うことです。二番目は、彼らは淫乱を食欲と同一として淫らな行いを正当化しようとしました。食物と腹が互いのためにあるように体と淫らな行いも互いのためにあるから楽しむべきだと主張しました。ここでパウロは、体は淫乱のためにあるのではなく主のためにあり、主は体のためにおられると言っています。

私たちはキリストのからだの一部です。これはキリストと一つのからだであるという意味です。頭と体が一つであるようにキリストと私が一つとなって聖なるからだとなりました。聖なる体を遊女の体の一部としていいのですか。遊女と交わる者は遊女と一つの体になります。ですから私たちは淫らな行いを避けなければなりません。淫らな行いは神様の御前で恐ろしく深刻な罪です。他の罪はその罪の実が体の外に、他人に被害を与えるという形で現れます。ところが淫らな行いはまさに自分の体に対して罪を犯すのです。淫らな行いは自分の人格を毀損するだけではなく重い罪責感に永遠にさいなまれます。パウロはコリント教会の深刻な淫乱の問題を指摘すると同時に、キリストが血の贖いの代価を払って買い取られたからだをどのように使うべきかを言っています。私たちの体は神様から受けた聖霊の宮ですから聖霊がおられるように、聖なる生活をしなければなりません(19)。私たちは自分の体をもって神様の栄光を現す人生を生きていかなければなりません(20)。霊だけではなく体も主のものですから神様が喜ばれる目的のために積極的に使わなければなりません。



適用:体をどのように使いますか

一言:神様の栄光を現すために


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