聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2021]

2021年 06月 15日 (火)

コリント人への手紙第一9:1-18(12)
この権利を用いないで

パウロは、コリント教会の開拓者であり、復活したイエス様を目撃した使徒でした。当時の巡回教師たちは、自分が仕えている教会から生活費の支援を受けていました。ところが、パウロはコリント教会からのサポートを受けなかったことで、むしろ無能な使徒だと誤解を受けました。コリント教会の一部の人達は、教会が支援していないのなら、パウロは本物の使徒ではない、とさえ考えました。ここでパウロは弁明をします。パウロも、他の使徒たちのようにいくらでも教会から生活費の支援を受ける権利がありました。ケファ(ペテロ)のように妻を連れての働きをすることもできました。軍人がお金をもらっているように、農夫が自分の農園の実を食べるように、その権利は当然でした。律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」(申命記25:4)と書いてあります。脱穀機につながれた牛が、その重労働に疲れて喉が乾いたり、お腹が空いたりした時に、自由に飲み、落ちた麦を食べることができるようにしなさいとイスラエルの律法は命じていました。動物にさえ、その労働に対する気配りをこのようにするのであれば、福音のしもべに対しては、尚更です。

ところが、パウロはすべての資格を持っていたにもかかわらず、その権利を用いませんでした。その理由は何ですか。まず、キリストの福音に何の妨げにもならないようにするためでした。彼は自分の権利よりも、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられることを、より大切に考えました。彼は聖徒たちの都合を誰よりもよく知っていました。そこで彼は、兄弟姉妹たちに全く負担をかけないようにと、自分で稼ぎながら福音を伝えました。第二に、彼の使徒としての誇りを守るためでした(15)。彼は最後まで自立的に働きながら牧者として生きることを望み、兄弟姉妹たちに少しでも重荷にならないことを望みました。福音を伝えなければ、わざわいだ、とさえ考える強い責任感の中で、神様から委ねられた務めに献身しました。パウロはこのように、福音を値なしで伝え、権利を用いないことについて、神様が賞をくださることを信じていました。



適用:正当な権利だとしても、福音のために全てを用いない姿勢がありますか

一言:福音に何の妨げにもならないように



2021年 06月 16日 (水)

コリント人への手紙第一9:19-27(19)
すべての人の奴隷になったパウロ

パウロは、すべての人から自由ですが、自らすべての人の奴隷になります。なぜなら、より多くの人を得ようとしたからです。様々な形の兄弟姉妹たちを得るためにどのようにしましたか。ユダヤ人を得るために、ユダヤ人の行動様式や文化的習慣に従いました。律法の下にある者を得るために、律法の下にある者のようになり、律法のない者を得るために、律法のない者のようになり、弱い者を得るために、弱い者になりました。パウロは兄弟姉妹たちの目線に合わせて、同じ立場で彼らを理解し、福音の恵みを分かち合おうとしました(23)。パウロがこのように柔軟に福音を伝えることができたのは、イエス様がそのように生きられたからです。イエス様は神様であられましたが、神様としてのあり方を捨てて、人としての姿でこの世に来られました(ピリピ2:5-8)。このようにしてこそ、人々に神の愛を伝えることができるのです(ヨハネ1:14)。福音の本質は変えることができませんが、非本質的な要素は、様々にすることができます。福音を伝えるためには、自分を奴隷のように低くして目線を合わせる必要があります。これが受肉の原理です。パウロは召されの賞を受けようと走りました。走る者として、すべての点で節制しました。「競技をする人」とは、勝とうと激しくもがいている人です。パウロは明確な目標に向かって全力で走りました。彼は信仰の競技者として自分のからだを打ちたたいて服従させました。



適用:様々な兄弟姉妹たちを得ようとしますか

一言:奴隷になりなさい


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