聖書別日ごとの糧   >>   コリント人Ⅰ[2021]

2021年 08月 25日 (水)

コリント人への手紙第一15:1-11(3-4)
聖書に書いてあるとおりによみがえられたこと

 使徒パウロは、彼が宣べ伝えた福音を思い出させながら、その福音に立つようにと願っています。なぜなら、福音だけが彼らを救うからです。福音の最も大切なことは、最初に、キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた事実です。イエス様が十字架で死なれたことで、私たちの罪は赦されました。次に、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた事実です。イエス様は葬られ、三日目によみがえられ、死の力を打ち壊されました。よみがえられたイエス様によって、わたしたちは新しいいのちを受け、永遠のいのちの望みを抱いて生きる者となりました。これは、聖書に書いてあるとおりに、起こったことです。偶然の事件、偶発的な結果では決してありません。信じる者に救いを与えてくださるために備えられた神様のご計画です。聖書に書いてあるとおりに、死なれ、よみがえられたイエス様を信じることで、私たちはすべての問題を根本から解決してもらわなくてはいけません。

 イエス様のよみがえりが確かなものであることを示すあかしがあります。まず、よみがえられたイエス様は弟子たちに現れました。よみがえられたイエス様は、ケファ、十二弟子、五百人以上の兄弟たち、ヤコブ、すべての使徒たち、そしてパウロに現れました。このことはイエス様のよみがえりが客観的な事実であることを示しています。さらに、よみがえられたイエス様に出会った人たちの内面と生涯がそれまでと全く変わった事実は、よみがえりの確かさを証ししています。パウロにもよみがえられたイエス様は現れ、彼を変えました。彼はこの恵みを担うために、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。今も、わたしたちがよみがえりのイエス様を受け入れるのなら、人生に新しい変化が起こります。これこそ、イエス様のよみがえりをしめす証です。



適用:誰が私たちを救ってくださいましたか

一言:聖書に書いてあるとおりに、死なれ、よみがえられたイエス様!



2021年 08月 26日 (木)

コリント人への手紙第一15:12-19(13)
もし死者の復活がないとしたら

 ギリシャの思想の影響を受けた人たちは、イエス・キリストの復活は信じても、自身のからだの復活を信じていませんでした。もし死者の復活がないとしたらどうなるでしょうか。キリストもよみがえらなかったでしょう。キリストも私たちと同じ体をもって世に来られたのですから、死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえることは出来ません。キリストがよみがえらなかったとしたら、どうなるのでしょう。使徒たちが伝えた福音は空しいものとなります。なぜなら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、使徒たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、偽証するものとなるからです。また、信者の信仰もむなしいものとなります。信者はキリストのよみがえりを信じる人たちなのに、実際に復活が起こっていないのなら、その信仰は無意味なものです。もし死者の復活がないとしたら、福音の最も大切な内容が崩れてしまうのです。

 それよりももっと深刻なことがあります。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、信者たちは今もなお自分の罪の中にいることになるのです。なぜなら、罪の結果として死があるのですから、死の問題を解決できていないということは、罪の問題も同じく解決できず、残されたままになっているからです。信者はキリストにある永遠の復活を望んでいるからこそ、すべてのことを犠牲にしてでも、キリストの苦しみにあずかります。もし死者の復活がないとしたら、信者の永遠の望みは潰え、世では誰よりも苦労を重ねる、哀れな人生になり果ててしまいます。このように、死者の復活を信じないことは、キリストのよみがえりを受け入れられず、キリストのよみがえりがないのなら、正しい信仰として立ちゆきません。ですから、私たちは死者の復活とキリストのよみがえりを信じる信仰を持つことがとても大切なのです。



適用:なぜ信者は哀れなものではないのでしょうか

一言:復活があるからです!



2021年 08月 27日 (金)

コリント人への手紙第一15:20-34(22)
キリストにあって生かされるのです

 イエス様がよみがえられたことで、私たちの人生は完全に変わりました。先ず何より、永遠のいのちが与えられることになります。アダムにあってもたらされた罪と死の支配下で、すべての人は生きていました。しかし、今はよみがえられたキリストにあって永遠に生かされるのです。しかし、よみがえりと永遠のいのちにあずかるには、順序があります。まず復活の初穂であるキリストです。次にキリストに属している人たちです。また復活の力は個人の人生にだけ及ぶのではありません。復活の力により、あらゆるサタンの力、罪悪、不義、最後には死の力さえもイエス様は滅ぼされます。この時、キリストは王として治め、万物の秩序を回復させます。イエス様の復活によって、もたらされる永遠のいのちと万物の回復のビジョンまでも私たちが仰ぎ見てゆくべきなのです。

 使徒パウロはよみがえりのイエス様を信じつつ、現実の困難から逃げませんでした。「日々死んでいるのです」と彼は告白します。これは日々、復活信仰で立ち上がる生き方です。パウロは危険な状況に処せられても、よみがえりのイエス様を信じ、いのちをかけて挑戦しました。私たちも自分にまかせられたすべてのことを、よみがえりのイエス様を信じる信仰により担ってゆきましょう。復活を信じない人たちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と言い、今日の快楽を追い求めます。彼らは復活信仰を携えて生きる人に悪影響を与え、罪を犯す誘惑となります。しかし、よみがえりのイエス様を信じる者は、霊的に目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにするべきです。



適用:よみがえりのイエス様の中で自慢することはありますか

一言:私は日々死んでいるのです



2021年 08月 28日 (土)

コリント人への手紙第一15:35-49(49)
天に属する方のかたちも持つ

 死者はどのようにしてよみがえるのか、どのようなからだで来るのかと、コリント教会では尋ねる信者がいました。これについてパウロは自然の法則を例にあげ、死者のよみがえりを説明します。種は、死ななければ生かされません。種が死んでこそ、新しいいのちが誕生します。同じように人が新しいいのちでよみがえるには、肉のからだは死ななくてはいけません。また、蒔くものは、後にできるからだではなく、ただの種粒です。私たちは種を蒔くだけですが、神様はみこころのままに、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。このように、神様はみこころのままに、よみがえりの新しいからだを与えてくださるのです。

 復活の際、どのようなものによみがえらされるか、パウロは続けて語ります。一言で、多様なかたちでよみがえります。肉のからだは、この世で生活するように造られたものですが、復活の後は神様の国で生きるように、多様なかたちでよみがえらされます。天上のからだもあり、地上のからだもあります。よみがえりの際の輝きも全て違います。具体的には、朽ちないもの、栄光あるもの、力あるもの、御霊に属するからだによみがえらされるのです。私たちはこの地上で、アダムの血肉のからだをもって生まれましたが、将来はイエス・キリストをかたどってよみがえらされます。このようなことができるのは、イエス様がいのちを与える御霊となられたからです(45)。復活の新しいすがたに変えられる望みをもって、生きてゆきましょう。



適用:私はどのようなからだでよみがえらされるのでしょうか

一言:天に属するかたちとして



2021年 08月 29日 (日)

コリント人への手紙第一15:50-58(57)
勝利を与えてくださる神様

 使徒パウロは復活による最後の勝利を賛美します。終わりの日、聖徒たちは神の国を相続します。その国は永遠に、朽ちないものです。しかし、朽ちるからだは神の国を相続できません。相続するために、朽ちるからだは、朽ちないからだに変えられないといけません。では、いつ変えられるのでしょうか。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに、クリスチャンはみな朽ちないからだに変えられるのです。死者は朽ちないものによみがえります。この時、信者のからだは傷もなく、罪もない、完全なよみがえりのからだを着ることとなります。ここにこそ信者の究極的な望みがあります。

 終わりのラッパの音とともに、人間の敵である死の力も完全に破壊されます。「死は勝利に吞み込まれた。」と記されたみことばが実現します。そして勝利の賛美へと続きます。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」その日、死の力は屈します。死が滅ぶと、罪と律法も力を失います。永遠のいのちだけがあります。神様は、主イエス・キリストによって、罪と死に打ち勝たれました。イエス様の勝利は、イエス様を信じる私たちの勝利でもあります。私たちは最後の勝利を確信し、試練の中にあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励んでゆきましょう。



祈り:死の力に苦しんでいますか

一言:死よ、おまえのとげはどこにあるのか


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