聖書別日ごとの糧   >>   テサロニケ人Ⅰ[2013]

2013年 09月 13日 (金)

1テサロニケ2:1-12
母がその子どもたちを養い育てるように

1.神様を喜ばせようと(1-5)
 パウロは苦しみに会い、はずかしみを受けても、神様によって、大胆に福音を伝えました。彼は人々に福音を伝える時、不純な心や、だましごとで勧めませんでした。また、一度もへつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたこともありませんでした。彼は、神様が自分に任された御言葉を、そのまま伝えました。彼がそのようにできたのは、心をお調べになる神様を喜ばせようとしたからです。苦しみの中でも、福音を伝えられる力と勇気は、神様を喜ばせようとする純粋な動機から出て来ます。
2.いのちさえも、差し出そうと(6-12)
 パウロは、使徒としての権威を主張することもできましたが、むしろ母がその子どもたちを養い育てるように、行ないました(7)。彼は兄弟たちに、神様の福音だけを伝えたのではなく、いのちさえも、喜んで差し出そうとしました。兄弟たちに向けられたパウロの愛は大きいもので、驚くべきものでした。彼は、福音の働き人として、その報酬を求めることもできました。しかし、兄弟たちに負担をかけさせないように、昼も夜も働きながら、福音を宣べ伝えました。彼は、言葉だけではなく、実生活の中でも、兄弟たちの手本になろうとしました。兄弟たちを激励し、時には、責めることもしました。これは、全ての兄弟たちが、神様の御前で、ふさわしい生活をすることを願ったからでした。

祈り:主よ!私が、子どもたちを愛する母親のように、純粋な心と愛によって、福音を伝えるように、助けてください。

一言:母のように



2013年 09月 14日 (土)

1テサロニケ2:13-20
私たちの誉れ

1.神様の御言葉によって
 テサロニケの聖徒たちは、神様の御言葉を受けた時、人間のことばとして受けたのではなく、神様の御言葉として受け入れました。パウロは、いつも、そのことを感謝していました。「人間のことばとして受ける」とは、「ある人が考え出した言葉として考える」という意味です。多くの人々は、聖書を、人々が作り出した話として考えます。このような人は、いくら多くの御言葉を聞いても、自分が変えられることを体験できません。しかし、テサロニケ教会は聖書の御言葉を、そのまま神様の御言葉として、受け入れました。その時、彼らの中で、御言葉が生き、働きました。御言葉を、神様の御言葉として受け入れるなら、必ず、その御言葉の力を体験するようになります。それだけではなく、この世で受ける迫害と苦しみに、打ち勝つことができます。
2.栄光と喜び(17-20)
 パウロが、しばらくの間彼らから引き離されたのでは顔だけであって、心においてではありません。彼は顔を合わせて、彼らと対面することを切に願っていました。それで彼らのもとに行こうと、何度も試みましたが、サタンが妨げました。パウロがもう一度、テサロニケ教会を訪問しようとしたのは、彼らこそが、イエス様の中にあって、自分たちの望みであり、喜びであり、誇りの冠だからです。パウロは、兄弟たちから、望みと喜びと誇りを捜しました。彼の生活の全ての中心は、兄弟たちにありました。彼は、本当に良い牧者です。再び来られるイエス様にあって、私たちの望みと喜びと誉れの冠とは、何でしょうか。兄弟たちこそが、私たちの栄光であり、喜びです。

祈り:主よ!私が御言葉を受けた時、神様の御言葉として受け入れます。また、兄弟たちを、私の栄光であり、喜びとして受け入れます。

一言:私たちの栄光は


<<(1)    前のページ(1)    2    次のページ(3)    (5)>>

聖書別日ごとの糧