聖書別日ごとの糧   >>   ヘブル[2003]

2003年 01月 22日 (水)

ヘブル人ヘノ手紙9:1-15
大きくて完全な幕屋で仕えられたイエス様

Ⅰ.罪を完全に清めることができない幕屋礼拝(1-10)
 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋は大きく聖所と至聖所に分けられます。聖所には燭台と机と備えのパンがあり、至聖所の中には金の香壇と契約の箱とマナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖と、契約の二枚の板と、贖罪蓋を覆う栄光のケルビムがありました。至聖所には大祭司だけが年に一回だけ、自分と民の罪のために、血を携えて入って行くことができます(7)。しかしこの天幕礼拝は人々の罪を完全に清めることができず、将来来るものの影に過ぎませんでした。
Ⅱ.罪を根本的に清めるキリストの血(11-15)
 イエス様は大祭司として来られ、偉大なさらに完全な幕屋に入って行かれました。イエス様はご自分の血で永遠の贖いを成し遂げられ一回だけ聖所に入って行かれました。それで今は、これ以上わずらわしい祭司が必要なくなったのです。
 キリストの血は良心で死んだ現実で清められ、生きておられる神様に仕えることができます。キリストの血だけが私たちの汚れた内面を根本的に清め、新しい人に変えることができるのです(14)。

祈り:主よ!キリストの血によって完全に清めてくださったことを感謝します。私が熱心に生きておられる神様に仕えるように助けてください。

一言:キリストの血だけが私たちの血を清めることができる



2003年 01月 23日 (木)

ヘブル人ヘノ手紙9:16-28
ご自分を一度だけささげたイエス様

Ⅰ.血を流さなければ赦しがない(16-22)
 遺言は遺言者が死ななければ効力がありません。このようにイエス様の遺言、すなわち契約もイエス様が死ななければ効力がないのです。最初の契約も、獣の血で立てられ、天幕と仕えることに用いられる全ての器も血をかけることで清められます。律法に従う全ての物が血で清められましたが、これは血なしには契約が成立しないからです。
 では、罪の赦しを受けるためになぜ血を流さなければならなかったのでしょうか。これは肉体の命が血にあるからです(レビ7:11)。罪の代価は死で、罪を犯した人間は血を流して惨めに死ななければなりませんでした。罪は何の代価もなしに赦されるものではなくて、必ず血すなわち命の代価を支払わなければならないのです。それほど、罪は重いもので、罪の赦しは価値のあるものなのです。
Ⅱ.最後の供え物になられたイエス様(23-28)
 旧約では、獣の血によって人間を罪が赦されましたが、これは不完全なものでした。イエス様は自ら血を流されることで、さらに良い供え物としてささげられました。それも旧約の供え物のように何度もささげられずに、世の罪をなくそうと一度だけご自分を完全な供え物として捧げられました。罪を犯した人間は裁きを逃れる方法はありません。しかしイエス様の犠牲によって裁きから救いを受けることができるようになったのです。

祈り:主よ!私の罪のために十字架で供え物になられたイエス様の救いの愛を賛美します。私が主のために生きます。

一言:一度だけ


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