聖書別日ごとの糧   >>   ヘブル[2010]

2010年 03月 08日 (月)

ヘブル9:1-15
さらに偉大な、完全な幕屋で

 イスラエルの民が荒野にいた時は、天幕になっていた幕屋で神様に仕えていました。ソロモン王以降には石で建てられた神殿で神様に仕えていました。しかしこの幕屋礼拝は将来来る真の幕屋の影に過ぎません。
Ⅰ.罪を完全にきよめることができない幕屋礼拝(1-10)
 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋は大きく聖所と至聖所に分けられます。聖所には燭台と机と供えのパンがあり、至聖所の中には金の香壇と、契約の箱と、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。至聖所には大祭司だけが年に一度、自分と民の罪のために血を携えて入って行きました(7)。しかしこの幕屋礼拝は人々の罪を完全にきよめることはできず、将来来るものの影に過ぎないものでした。
Ⅱ.根本的に罪をきよめてくださるキリストの血(11-15)
 イエス様は大祭司として来られ、ご自分の血を携え、さらに偉大な、さらに完全な幕屋に入って行かれました。イエス様はご自分の血でただ一度、聖所に入って行かれ、永遠の贖いを成し遂げられました。それで今はこれ以上わずらわしいいけにえが必要ではなくなりました。キリストの血は、私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神様に仕える者にしてくださいます。キリストの血だけが、私たちの汚れた内面を根本的にきよめてくださり、新しい人に変えることができるのです(14)。

祈り:主よ!キリストの血によって完全にきよめてくださったことを感謝します。私が熱心に生きておられる神様に仕えるように助けてください。

一言:キリストの血だけが私たちの血をきよめることができる



2010年 03月 09日 (火)

ヘブル9:16-28
ただ一度、ご自身をおささげになったイエス様

Ⅰ.血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない(16-22)
 遺言は遺言者が死んでから効力を発揮します。このようにイエス様の遺言、すなわち契約もイエス様が死ねば効力があります。初めの契約も獣の血でたてられ、幕屋と礼拝のすべての器具にも血を注ぐことで、きよめました。律法に従ってほとんどすべてのものが血によってきよめられましたが、これは血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないからです。
 では、罪の赦しを受けるためにはなぜ血を流さなければならないのでしょうか。これは肉のいのちが血の中にあるからです(レビ17:11)。罪の代価は死であり、罪を犯した人間は血を流してみじめに死ななければなりませんでした。罪は何の代価もなしには赦されるものではなく、必ず血すなわち、いのちの代価を払わなければなりません。それだけ罪は恐ろしいものであり、罪の赦しは貴いものなのです。
Ⅱ.最後のささげ物となったイエス様(23-28)
 旧約では、獣の血で人の罪を贖いましたが、これは不完全なものでした。イエス様はみずから血を流されることで、さらにすぐれたいけにえとしてささげられました。それも旧約のいけにえのように、繰り返しささげずに、世の罪をなくそうと、一度だけご自分を完全ないけにえとしてささげました。罪を犯した人間にさばきから逃れる道はありません。しかしイエス様の犠牲によってさばきから救いを受けるようになりました。

祈り:主よ!私の罪のために十字架でいけにえとなってくださったイエス様の救いの愛を賛美します。私は主のために生きます。

一言:ただ一度だけ


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