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2019年 04月 16日 (火)

コリント人ヘの手紙第一15:1-11(3,4) (イースター特集)
聖書の示すとおりによみがえられたイエス様

 使徒パウロは、自分の宣べ伝えた福音をふたたび思い起こさせながら、その福音をしっかりと保つように助けています。なぜなら、福音によってのみ救われるからです。その福音の核となる内容は何でしょうか。第一に、キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたことです。イエス様が十字架で死なれることによって、私たちの罪が赦されました。第二に、聖書の示すとおりに三日目によみがえられたことです。イエス様は葬られ、三日目によみがえられることによって、死の力を打ち砕かれました。よみがえられたイエス様によって私たちは新しい命を得、消えることのない生ける望みを抱いて生きることが出来るようになりました。これは、聖書の示すとおりに成されたことであって、決して偶然の出来事ではありません。信じる者に救いを与える神様のご計画なのです。聖書の示すとおりに死なれ、よみがえられたイエス様を、私たちが信じさえすれば、私たちを取り巻くあらゆる問題が根本的に解決されます。
 イエス様のよみがえりの出来事を証明してくれる確かな証拠があります。よみがえられたイエス様が弟子たちに現れたことです。イエス様はケパ、つまりペテロ(「ケパ(石)」はアラム語、「ペテロ」はギリシャ語)、十二弟子、五百人以上の兄弟たち、ヤコブ、使徒たち全員、そしてパウロにも現れました。これは、イエス様のよみがえりが客観的事実であることを裏付けます。さらに、よみがえられたイエス様に出会った人々の変化も、揺るがない証拠となります。 よみがえられたイエス様は、サウロに現れて彼を完全に変えてしまいました。パウロは溢れるばかりの恵みのゆえに、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。今もなお、よみがえられたイエス様に出会う人は、人生において新しい変化を体験するようになります。これこそ、イエス様のよみがえりの揺るぎない証拠となります。


適用:誰によって救われますか

一言:聖書の示すとおりに死なれ、よみがえられたイエス様



2019年 04月 17日 (水)

コリント人ヘの手紙第一15:12-19(13) (イースター特集)
死者の復活がないのなら

 キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられていましたが、コリントの教会の一部の人たちは、使者の復活はないと言い張りました。もし、死者の復活がないとしたら、それは何を意味することになるのでしょうか。キリストは人の体を持ってこの世に来られましたが、もし、死者の復活がないのであれば、キリストも復活されなかったことになります。キリストが復活されなかったのであれば、使徒たちが宣べ伝えた福音は無駄になります。なぜなら、キリストが復活したと嘘をついていることになるからです。そして、信じる者の信仰も無意味なものになります。クリスチャンはキリストの復活を信じる者であるのに、キリストが復活していないのなら、その信仰ほどむなしいものはありません。もし、死者の復活がないのなら、福音が根本から崩れ落ちることになります。
 更には、もっと深刻なことが起こってしまいます。キリストの復活がないのであれば、クリスチャンは以前と変わらないまま罪の中で生きていることになります。人は罪の結果として死ぬことになっていますが、キリストによってこの死の問題が解決されていないのなら、罪の問題も解決されていないことになるからです。聖徒たちは、キリストの内にある復活に希望を置いているので、自分を犠牲にし、キリストの苦しみにあずかることができます。しかし、キリストがよみがえっていないのであれば、聖徒の希望は消え去り、この世で苦労ばかりしている一番哀れな者となります。このように、死者の復活を信じないのなら、キリストの復活も受け入れることができません。そして、キリストの復活がないと思っているのなら、信仰の上にしっかりと立つことができなくなります。ですから、私たちは死者の復活とキリストの復活を信じる福音信仰を持たなければなりません。


適用:信じる者が哀れでないのはなぜですか

一言:復活があるから



2019年 04月 18日 (木)

コリント人ヘの手紙第一15:20-28(20) (イースター特集)
眠った者の初穂となられたキリスト

 もし、キリストがよみがえられていないのなら、私たちの信仰と宣教はむなしいものになってしまいます。しかし、今や、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。初穂というのは、最初の実りのことです。これからの豊かな収穫を約束してくれるものです。すなわち、イエス様が死んだ者たちの初穂として復活されたことによって、キリストに続く私たちも、イエス様のように復活することを保証してくれています。復活の初穂であられるイエス様のように、私たちも栄光ある姿によみがえるのです。イエス様は、体を脱ぎ捨てて御霊だけで復活したのではありません。復活の初穂であられるイエス様が栄光ある姿に変えられてよみがえられたように、私たちの体もよみがえるようになります。
 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされます(21,22)。死者の復活には順番があります。まず初穂であられるキリストです。次に、キリストの再臨の時、キリストに属している者です。それから、キリストがあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼして、国を父なる神様にお渡しになる終わりが来ます。最後の敵である死も滅ぼされます。キリストは万物をご自分に従わせてから、その国を神様に引き渡されます。その時、イエス様もご自分に万物を従わせた神様に従われます。やがて、すべてにおいてすべてとなられる神様が、万物を支配するようになります。そして、壊れていた創造の秩序が回復し、すべてが元に戻ります。


適用:イエス様が復活の初穂となられたことは何を意味しますか

一言:私もよみがえる



2019年 04月 19日 (金)

コリント人ヘの手紙第一15:29-34(33) (イースター特集)
思い違いをしてはいけません

 使徒パウロは体の復活を信じていたので、いつも危険にさらされていました(30)。異邦人の牧者、宣教師として数多くの苦しみを味わいました。牢に入れられたことも多く、むち打たれたことは数えきれないほどでした。宣教の旅の途中、川の難、盗賊の難、荒野の難、海上の難などに会い、労し苦しみ、たびたび眠れぬ夜を過ごしました。飢え渇き、寒さに凍え、裸でいたこともありました。彼自身の告白のように毎日が死の連続の人生を歩みました(31)。どうしてこのような人生を生きることが出来たのでしょうか。それは、使徒パウロが、体の復活を信じていたからです。肉体はよみがえり、神の国で永遠に生きると信じていました。それゆえ、キリストのために苦難の道を歩むことを誇りに思っていました。
 もし、死者の復活がなく、この世での生活がすべてであるなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」と言い、生きている間、思いっきり楽しむことに最大の価値を置くようになります。しかし、パウロは断固として言います。「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。」ここで、悪い友だちとは、体の復活と神の国を信じない人のことです。こういう人々は復活に対する望みを持っていないので、飲み食いして快楽を求めて生きます。信じる者は思い違いをしてはいけません。体の復活と永遠の命に望みを置いて、目をさまして正しい生活を送り、罪をやめなければなりません。


適用:悪い友だちを警戒していますか

一言:思い違いをしてはいけません



2019年 04月 20日 (土)

コリント人ヘの手紙第一15:35-49(49) (イースター特集)
天上のかたちを持つのです

 コリント教会の聖徒の中には、「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」と問いかける人たちがいました。これについて、パウロは自然法則に例えながら、死んだ者がどのように復活するのかを説明します。種は死ななければ、芽を吹き、花を咲かせ、実をつけることができません。死んでこそ新しい命が生まれるのです。同じく、人が新しい命を持って生きるためには、体が死ななければなりません。また、蒔く物は、後にできるからだではなく、種粒です。種を蒔きますが、神様はみこころに従って、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。このように、神様はみこころに従って、私たちを新しくよみがえらせてくださいます。
 使徒パウロは、どのようなからだでよみがえるのかについて話します。すべての肉が同じではなく、様々なかたちがあります(39)。天上のからだもあり、地上のからだもあります。復活後の栄光もすべてが異なります。血肉の体は朽ちますが、御霊の体は永遠に生きることのできる朽ちない体です。血肉の体は卑しいですが、御霊の体は輝かしい栄光ある姿です。血肉の体は弱いですが、御霊の体は強いです。この世では、アダムの血肉の体を持った者ですが、将来的にはイエスキリストの形を持つことができます。それは、イエス様が生かす御霊となるからです(45)。新しい復活の体によみがえらされることを待ち望みながら生きていきましょう。


適用:どのようなからだによみがえらされるのでしょうか

一言:天上のかたち



2019年 04月 21日 (日)

コリント人ヘの手紙第一15:50-58(57) (イースター特集)
勝利を与えてくださる神様

 使徒パウロは、復活による最後の勝利について述べています。終わりの日に、聖徒たちは神の国を相続します。その国は永遠で、栄光に輝く国です。しかし、血肉の体、朽ちるからだでは永遠の神の国に入ることはできません。必ず、朽ちるものは朽ちないものを着なければなりません。ところで、このことは、いつ、どのように起こるのでしょうか。終わりのラッパとともに、イエス様が再び来られる時に起こります。たちまち、一瞬のうちに、復活のからだに変えられます。死者は朽ちないものによみがえります。その時、聖徒のからだは傷もなく、罪もない、完全なる復活のからだを着るようになります。まさに、信じる者の究極的な切なる望みなのです。
 終わりのラッパとともに、最後の敵である死も滅ぼされます。「死は勝利にのまれた」としるされている御言葉が実現します。そして、勝利の歌を高らかに歌う日が来ます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」その日、死は敗北します。人を脅かし、希望と信仰を揺さぶっていた死が滅びます。死が滅ぼされるので、罪と律法の力も自然と消滅します。永遠の命があるのみです。律法に対して、罪に対して死なれたイエス様は死に打ち勝ち、よみがえられました。私たちはキリスト・イエスにあって、罪に対しても、律法に対しても、死に対しても圧倒的な勝利者なのです。ですから、福音信仰の上に堅く立って、動かされることなく、復活の望みの中で主のわざに励まなければなりません。


適用:死の力に脅かされていますか

一言:死よ、おまえのとげはどこにあるのか


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