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2004年 12月 19日 (日)

創世記3:1-15
女の子孫を約束してくださった神様

Ⅰ.アダムを訪ねて来られた神様(1-13)
 神様は人間を愛され、エデンの園を造られ、そこで幸せに生きるようにされました。ところが彼らはサタンの誘惑を受け、神様があれほどまでに禁じられた善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。神様のようになる、というサタンの嘘にだまされたのです(5)。しかし彼らの心には羞恥心と罪意識と神様に対する恐れが生じて、園の木の間に身を隠しました。神様はこのようなアダムを訪ねて来られました。「あなたは、どこにいるのか。」(9)。人々は罪を犯し、むやみに隠れようとします。しかし神様は罪意識と恐れで震え、隠れている私たちを救うために、訪ねて来られます。
Ⅱ.約束通りにキリストをお遣わしになった神様(14-15)
 神様はエバを誘惑した蛇、すなわちサタンを呪われました(14)。そして結局は「女の子孫」を通して、サタンが滅びるようになることを預言されました(15)。ここで、「女の子孫」とはイエス・キリストを指しますが、これはこの世にキリストをお遣わしになるという神様の最初の約束です。キリストを「女の子孫」と言われたのは、処女マリヤを通して来られるからです。この約束通りに、時になると神様はイエス・キリストを処女マリヤを通してこの世にお遣わしになりました。イエス様はこの世に来られ、十字架で死なれ、よみがえられることによって、サタンの勢力を打ち砕かれ、人類の救いの御業を完成させました。イエス様は神様が創造の時から約束された人類のキリストです。

祈り:主よ!罪意識と恐れによって震える私たちのためにキリストを約束し、その約束通りにイエス様を遣わしてくださり感謝します。

一言:イエス様は約束されたキリスト



2004年 12月 20日 (月)

ヨハネノ福音書3:16
神様は実に世を愛されました

Ⅰ.ひとり子をお与えになった神様(16a)
 人間は神様の御言葉に不従順で、堕落の道を行くようになりました。神様がくださった聖なる品性を失ってしまい、醜く汚れた内面を持つようになり、全ての罪を犯し、神様に敵対しました。神様はこのような人間を滅ぼすしかありませんでした。 しかし神様は醜く傲慢でご自分に敵対する人間を愛されました。ことばだけで愛さずに、ただひとりしかいないご自分の子をお与えになったことで、その愛を見せてくださいました。神様の愛は、愛することのできない者を愛する驚くべき愛です。イエス様が来られたことは、神様が私たち人間をどれだけ愛しておられるのかを見せてくれる確かな証拠なのです。
Ⅱ.永遠のいのちをくださった神様(16b)
 神様がひとり子イエス様をお与えになった目的は永遠のいのちを持たせるためです。罪は人を滅亡と死に追いやって行きます。しかしイエス様は私たちに永遠のいのちをくださいます。永遠のいのちがある時に、活気で満ち、やりがいがあり、幸福な人生を生きるようになるのです。それだけではなく、将来神様の御国で永遠に主と共に生きようという望みを持つようになるのです。
 では私たちはどのようにすれば永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。「御子を信じる」者が永遠のいのちを持つと約束されました。どんな罪人であっても、イエス様を信じさえすれば、永遠のいのちを持つことができるのです。信じるものの他には何の条件もありません。これは神様が定められた救いの方法なのです。

祈り:主よ!滅びるしかない私のためにひとり子イエス様を遣わしてくださり、永遠のいのちを持つようにしてくださった神様の愛を感謝賛美します。

一言:イエス様をくださった神様の愛



2004年 12月 21日 (火)

イザヤ書9:1-7
ひとりのみどりご

Ⅰ.大きな光イエス様(1-5)
 イザヤの時代に、イスラエルは罪によってやみの中と死の陰の地に座って苦しみあえいでいました。また蔑しまれ、絶望していました。しかしイザヤは将来来るキリストの誕生を仰ぎ見て、望みの歌を歌いました。キリストが来られれば蔑しまれていたガリラヤが光栄を受け、やみの中と死の陰の地に住んで苦しんでいた彼らが大きな光を見るようになるのです。また重く担っていた人生のくびきとサタンの圧制から抜け出すようになるのです。人々はやみの中と死の陰の地に座って苦しみます。また人生の重荷と罪が与える圧制でうめきます。イエス様はこのような人々にとって大きな光になれます。イエス様の光が照らす時、すべてのやみとくびきと罪の力が退きます。イエス様の光が照らす時、望みといのちが臨みます。
Ⅱ.ひとりのみどりご、イエス様(6,7)
 イエス様は弱いひとりのみどりごとして来られます。しかしこのみどりごはその肩に、世を統治する主権がありましたが、その名前は「不思議」です。不思議とは私たち人間の理性を超越して、宇宙万物と世の歴史を主管される方という意味です。このみどりごは「助言者」です。助言者とは無限の知恵で人々を助ける相談者と言う意味です。イエス様は「力ある神様」であり、孤児のような私たち人間を繊細に顧みてくださる「永遠の父」です。イエス様は公平と正義と愛で治められる「平和の君」です。

祈り:主よ!やみと蔑視と死の力で苦しめられている罪人を救うために、ひとりのみどりごとして来られたことを感謝します。

一言:ひとりのみどりごがお生まれになった



2004年 12月 22日 (水)

イザヤ書11:1-9
新芽

Ⅰ.新芽が生え(1-5)
 イザヤはメシヤを通して、成し遂げられる新しい御業を仰ぎ見ました。神様はレバノンの山林のように威容を誇る世の国の指導者たちを切り払われました(10:33)。代わりにダビデの父エッサイの根株から新根を生えさせ、新しい御業を始められます。新芽は最初は小さく見えます。しかしその中にいのちがあるので、すぐに成長し若枝が出て実を結ぶ木に成長します。「新芽」はイエス・キリストを指します。イエス様は主の霊、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊です。このイエス様が私たちの心に臨まれれば、すべての世俗的で古いものが新しくなるのです。
Ⅱ.害を加えず、そこなわない(6-9)
 罪によって楽園を失った世は、狼と子羊、ひょうと子やぎ、雌牛と熊が互いに敵となり、裂いて殺します。しかしメシヤが来られれば、ねたみと競争と弱肉強食がなくなり、平和が臨みます。獅子が牛のようにわらを食べ、乳飲み子はコブラの穴の上で戯れます。害を加えず、そこないません。水が海をおおうように、主を知る知識が全地に満たすようになります。過ぎ去りし日のすべての罪深い歴史が消え去り、楽園が回復します。このような新しい御業は将来イエス様が再臨されれば、完成されるのです。しかしイエス様がこの地に来られることで、すでにこの御業は始まりました。

祈り:主よ!この地にねたみと競争と戦争が続いています。イエス様が来られることで、愛と平和の御業が臨みますように。

一言:イエス様によって臨む新しい御業



2004年 12月 23日 (木)

マタイノ福音書1:1-17
恵みと憐れみの主

Ⅰ.恵みと憐れみが満ちていたイエス様(1-11)
 イエス様はアブラハムとダビデの子孫です。神様は、アブラハムとダビデに彼らの子孫の中でキリストを送ると、約束されました(創22:17,19,Ⅱサム7:12,13)。それでイエス様は神様が約束されたキリストです。アブラハムから始まり、ダビデを経て、イエス様に至るイエス様の系図には、三人の女性が登場します。ところが彼女たちは異邦の女であり、特にタマルとラハブは不倫の女でした。しかしこの女たちには信仰がありました。神様は、彼女たちをご自分の救いの御業に尊く用いられました。この神様は卑しい者たちを受け入れ、用いられる憐れみの神様です。人間的な条件よりは信仰をご覧になる恵みの神様です。
Ⅱ.歴史の中心になるイエス様(12-17)
 アブラハムから始まったユダの歴史は、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代です。ユダの歴史は栄枯盛衰を経ています。大切なのはイスラエルの全ての歴史がイエス様の誕生に集約されるということです。神様は約束されたキリストをお遣わしになるまで、激しく働かれました。この神様はキリストが再臨され、世をさばき、神の国が臨まれるまで激しく働かれます。歴史の中心はキリストであり、四人の女性のようにイエス様を信じ、聞き従う者たちが歴史の主人公です。

祈り:主よ!過ちが多く、足りない罪人を救ってくださり、救いの御業に用いてくださり、心から感謝します。

一言:恵みと憐れみの主



2004年 12月 24日 (金)

マタイノ福音書1:18-25
その名をイエスとつけなさい

Ⅰ.罪から救ってくださる方イエス様(18-21)
 ヨセフと婚約した処女マリヤが身重になると、ヨセフはこれを公にはせず、内密に去らせようとしました。その時、主の使いがヨセフの夢に現われ、マリヤが身ごもっている子どもが誰であるのかを知らせてくれました。主の使いは、初めにイエス様が人間的な方法によってではなく、聖霊の力で身重になったことを知らせてくださいます。聖霊によって身重になったことで、イエス様は普通の人とは違い、罪がない方です。主の使いは、またマリヤが男の子を産むので、その名を「イエス」とつけるように言いました。「イエス」は「主は救いです」という意味です。世の中には多くの問題がありますが、もっとも根本的な問題は罪の問題です。罪が人を不幸にし、滅ぼします。罪から来る報酬は死であり(ロマ6:23)、その後にはさばきがあります(ヘブ9:27)。誰も、何も罪の問題を解決することができません。イエス様は死とさばきから私たちを救うためにこの世に来られました。
Ⅱ.インマヌエルのイエス様(22-25)
 イエス様のまた他の名前は「インマヌエル」です(23)。この名前は「私たちとともにおられる神様」という意味です。聖なる神様は醜くにおいがする私たちと共におられるために、肉の体を着てこの世に来られました。「インマヌエル」のイエス様は私たちの友だちになり、牧者になり、救い主になられます。このイエス様を受け入れる時、私たちは慰めと力を受け、罪と悲しみから救いを受けることができるのです。

祈り:主よ!罪と悲しみから私を救うために肉の体を着て、この地に来られたイエス様の大きな恵みに感謝します。

一言:その名はイエス



2004年 12月 25日 (土)

マタイノ福音書2:1-12
ひれ伏して拝んだ

Ⅰ.王であり牧者としてお生まれになったイエス様(1-8)
 ユダヤの王ヘロデの時に、東方から博士たちがエルサレムを訪ねて来ました。彼らは聖書に約束されたメシヤの星を見て、彼を拝みに来ました(民24:17)。イエス様は全ての民から崇められる王であり、牧者です(6)。イエス様はヘロデのように権力で人を治める王ではありません。イエス様は愛と平和で私たちを治められます。またイエス様は子羊を胸に抱いて、いなくなった羊を探すよい牧者です。このイエス様に治められる時、本当の幸せがあるのです。
Ⅱ.ひれ伏して拝んだ博士たち(9-12)
 イエス様の誕生の知らせを聞いたエルサレムに大きな騒動が起き、ヘロデは幼子イエス様を殺そうとたくらみました。しかし東方の博士たちは星の導きを受け、幼子イエス様のもとに行きました。本当の礼拝の対象であるキリストを見つけた彼らはこの上もなく喜びました。彼らは家に入り、幼子イエス様が母マリヤとともにおられるのを見ました。彼らは、このイエス様が聖書に約束されたユダ人の王であり、イスラエルの牧者であることを知りました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。 本当の礼拝の対象を見つけ、その前にひれ伏して拝み、帰って行く博士たちこそが最も幸せな人々です。イエス様がお生まれになったことを聞き、騒いでたくらみ、自分が崇められようとしたヘロデは絶対にこの幸せを知ることができませんでした。

祈り:主よ!主だけが私の王であり、礼拝の対象です。私が東方の博士たちのように最も尊いものをささげ、礼拝します。

一言:ひれ伏して拝んだ


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