聖書別日ごとの糧   >>   年末年始

2016年 01月 01日 (金)

申命記6:1-25
心を尽くして、愛しなさい

1.主はただひとりである(1-13)
 主なる神様は、ただひとりの神様です。それで、形式的に神様に仕えてはならず、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、神様を愛さなければなりません(5)。具体的に、神様の御言葉を心に刻み、家にすわっている時も、道を歩く時も、いつも子どもたちに教えなければなりません。また、御言葉を手に結びつけ、額の上に置き、家の門柱と門に書き記さなければなりません(9)。これは、いつも神様の御言葉を近くに置く生活をせよという命令です。カナンの地に入って行き、良い者が満ちた家を得て、お腹を満たした時、神様の恵みを忘れてはいけません。
2.主を試みてはいけません(14-25)
 イスラエルの民は、レフィデムで飲み水を巡って、神様を試みました(出17:2)。しかし今は、これ以上、神様を試みてはならず、主の目の前に正直で、良いことを行なわなければなりません。後に、子孫が、神様の御言葉には、どんな意味があるのかと尋ねるなら、神様が御力で、イスラエルをエジプトから救い出し、カナンに導いてくださったこと、を教えなければなりません。また、神様の祝福を受けるために、全ての御言葉をそのまま守ることを、教えなければなりません。
 神様は、試みる対象ではなく、従順の対象です。神様の御言葉を恐れ敬う心で守り、心を尽くし、力を尽くして、神様を愛する時、いつも祝福された生活を送ることができます。

祈り:主よ!主は唯一の神様です。私が、心と精神と力を尽くして、神様を愛し、もう試みません。

一言:全てのことを尽くして、神様を愛します。



2016年 01月 02日 (土)

出エジプト記21:1-11
主人と奴隷に対する定め

 その当時、ヘブル人が奴隷になるのは、借金を返せなかった時(レビ25:39)と盗んだ物を弁償する能力がなかった時でした(22:3)。ところが、一度奴隷になると、死ぬまで奴隷として生きなければなりませんでした。主人は何とかして奴隷の労働力を利用しようとしていたため、彼らの人権と幸福には関心がありませんでした。奴隷は家畜のように扱われていました。これは当時、自然の慣習でした。
 ところが神様は、ヘブル人の奴隷を買った時、その人は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去らせよ、と言われました。結婚するために買って来た女奴隷がその人を受け入れない時は、代価を払って自由の身にしなければなりません。女奴隷を息子の与えるなら娘のように考え、自分が他の人と結婚することがあっても、買って来た女奴隷に衣食住を提供するように、言われました。このような神様の定めは、当時の社会では革命的なことでした。神様は、全ての人々が根本的には自由人として生きるように、されました。人々が幸福を求めて生きるように、他の人々の人権を尊重するように、されました。
 私たちは、奴隷ではなくても、私たちに雇われた人や負債を負った人、弱い立場にいる人々の人権を尊重しなければなりません。彼らも幸福を求める権利があることを認め、人として尊重しなければなりません。人を縛りつける貧困や制度、罪からも自由にして上げなければなりません。これが神様の御心です。

祈り:主よ!人間の自由を尊重される主の愛に感謝します。私が主の御心で、他の人の人権と幸福を求める者になるように、助けてください。

一言:自由人として造られた神様



2016年 12月 31日 (土)

詩篇23:1-6 (6)
主は私の羊飼い

  羊は目が悪くて遠くを見ることが出来ず、良い草と毒草を区別出来ません。憶病で猛獣から自分を防御する力もありませんが、意地っ張りです。羊は牧者の助けが絶対的に必要な動物です。詩人は自分を羊として、主を羊飼いとして告白しています。羊飼いである神様は羊たちを緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます(2)。罪の誘惑が多い世で義の道に導いて下さり、疲れた魂を生き返らせます。主はいつも私と共におられます。主が私と共におられる限り、死の陰の谷を歩く事があっても災いを恐れません。主が私を徹底的に守られるからです。主は敵に打ち勝つようにされ、敵の目の前で尊くあげられます。溢れるばかりの祝福を注いで下さいます。私の命の日の限り私がどこに行っても、どんな状況に処せられても慈しみと恵みとが私を追ってきます。私を離れず見逃す事がありません。
  人生の道には苦難や敗北もあり、敵の攻撃も絶えません。道を失い、どこに行けばよいのか分からず、一人ぼっちのようで孤独で怯える時もあります。死の陰の谷を歩く事もあります。 すると人々はお金や権力、偉い人に頼ろうとします。しかし、それらは私達の真の羊飼いにはなれません。神様だけが私達の牧者になられます。牧者である神様の導きの中で、私達の人生は全ての事が働かされて善と成ります。いつも私と共におられ、私を導き、守り、養い育てて下さる主が私の牧者ですから、私は乏しい事がありません。
  この詩は、ダビデが晩年に自分の全人生を回顧しながら作った詩として知られています。主を牧者としたダビデは‘私は乏しい事がありません’’私の杯はあふれています‘と告白しています。ダビデのように、私達も牧者である神様が今まで守って下さいました。主は一生、私と共におられます。
  
  
  

適用:誰が私の牧者ですか。

一言:主である神様


<<(1)    前のページ(14)    15    次のページ(16)    (23)>>

聖書別日ごとの糧