聖書別日ごとの糧   >>   レビ記[2021]

2021年 10月 15日 (金)

レビ記19:1-18(2)
あなたがたは聖なる者でなければならない

神様は聖であられます。したがって、神様の民であるイスラエルの子らも聖なる者であるべきです。親を恐れることと安息日を守ることとは、聖なる生活の根本になります。安息日を守ることは、神様を畏れる信仰の具体的な表現です。聖なる神の民は、収穫する際に、貧しい者たちのために畑の角まで刈りつくさず、収穫した後の畑に落ちた穂を拾いあつめてはなりません。これは、貧しい人々と異国人への配慮となります。聖なる民は盗んではならず、欺いてはならず、互いに偽ってはならず、神の御名によって偽証してなりません。弱者を虐げてはなりません。裁判官は不正を行なわずに公平に裁く必要があります。兄弟を憎んではならず、近所の人のゆえに罪を追わないようにその人を必ず叱責する必要があります。復讐してはならず、人々にうらみをいだいてはならず、隣人を自分自身のように愛する必要があります。

イエス様は、神の民の模範となる一生を過ごしました。イエス様が神様の御言葉を完全に聞き従われたように、私たちも、神様の御言葉に従うことで聖なる民として生きることができます。イエス様が私たちをどのように愛しておられるかを深く悟るとき、隣人を愛することができます。私たちがすべてのことに神様の聖なる民として、社会に良い影響を与える人として生きていけるように祈ります。



適用:どのような生き方をしていますか

一言:聖なる者



2021年 12月 07日 (火)

レビ記19:19-37(37)
わたしは主である

 19章は、イスラエルの民が、周囲の諸国民とは区別された信仰生活ができるように神さまが与えた戒めについて記しています。前半部分には、聖なる生活について、また隣人との関係などについて記しています。今日の箇所である19節以降には、日常の様々な場面における規定が記されています。新約以降のクリスチャンの生活には、レビ記の戒めがそのまま全て適用される訳ではありませんが、神さまが私たちの日常生活の細々としたところまで関心をお持ちになっており、私たちが聖なる生活をすることを求められていることには、何の変わりもありません。

19節と26-31節の禁止事項の内容は、当時の異邦人たちが行っていた行為でした。神秘的な力を求めて行ったり、彼らの宗教儀式の習慣として行ったりしていたものでした。神さまは、ご自分の民が異邦の民の風習や考え方に惑わされずに、主なる神さまの前で信仰と秩序と愛に満ちた生活をすることを願われました。20−22節に出てくる男と女奴隷の性的行為に対する戒めは、神さまが弱者を保護される方であることを示しています。どの時代においても、女奴隷は立場が弱く、無視され責任転嫁されやすい存在です。ところが、むしろその弱さを主は考慮して、罪の責任を男性だけに問うようにされました。23-25節の約束の地での果実の収穫についての戒めは、土地も収穫も主が与えたものであることを教えています。人が勤勉に働いて収穫することも大事なことですが、主の民は、主の示す方法で働き、収穫することが最も安心で豊かな実りも味わえる方法なのです。32-37節は、人への配慮と正しい態度を持つべきことへの戒めです。これら全ての戒めを神の民が守る理由は、神が彼らの主でおられ、彼らが主の所有の民であるからです。主は今日の箇所だけで8回もご自分が「主である」とおっしゃっています。私たちの生活は、主なる神さまに従うときに、初めて、秩序と安心、豊かさを得るようになるのです。



適用:誰のことばに聞き従いますか

一言:私の神でおられる主


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