聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2020]

2020年 01月 28日 (火)

ローマ人ヘの手紙9:1-18(11)
召してくださる方によるように

 パウロは同じ民族であるユダヤ人から排斥される苦しみを受けていました。それでも、パウロは、福音を拒絶した同族に対して悲しみ、彼らを救うことさえできるなら、自分の持っているすべてのものを犠牲にする、という愛と救いの情熱を持っていました。私たちは、救われない家族と兄弟たちに対して、パウロのような救いの情熱と愛を持っているでしょうか。
 ユダヤ人は頑固さによって、神様の御言葉、すなわち、「アブラハムの子孫であるイスラエルを祝福される」という約束、また「イスラエルを通して、全世界を救われる」と言われた神様の計画は失敗したのでしょうか。イスラエルに対する神様の約束の御言葉が失敗したのであれば、私の救いが確実なものであるという約束も、成り立っていないのではないのでしょうか(ロマ8:32-39)。いいえ、そうではありません。神様の約束が廃されたのでもなく、神様が失敗したのでもありません。パウロは二つのことを言いました。第一に、アブラハムから出たからと言って、全てが神様の子どもではありません。ただ、イサクだけが約束の子どもであり、神様の子どもとして認められました。肉のイスラエルが本当のイスラエルではなく、表面的なクリスチャンも、本当のクリスチャンだとは言えません。ただ、神様の約束を信じて聞き従った子どもだけが、本当のイスラエルであり、クリスチャンです。第二に、神様の救いの御業は、神様に選ばれた者、召された者によって成し遂げられます。神様は、生まれる前から既に長子の代わりに、弟を選び、ヤコブを愛し、エサウを嫌いました。私が良いことをして、愛しやすい子だから、約束の子どもになったのでしょうか。そうではありません。神様が、なぜ憎まれるべき私を選ばれたのか、また、なぜこれほどまでに、私を愛されたのか、その理由を説明することはできません。福音に敵対する人々が多い中、どのように、私が福音を受け入れ、聞き従うようになったのかは、本当に神秘的です。ただ、私たちは、「神様が、このすべてのことを成し遂げられた」「神様の恵みだ」と告白するしかありません。


適用:私が優れていたから救いを受けたのでしょうか

一言:すべてが恵みです



2020年 01月 29日 (水)

ローマ人ヘの手紙9:19-29(20)
あなたは、いったい何者ですか

 救いの御業は、人にかかっているのではなく、神様の主権による選択と召されにかかっている、ということは、選ばれた約束の子どもには恵みですが、そうでない者には、不合理なものとして、考えられます。しかし、これは、神様の御前で、人が何者なのかを分かっていない、無知で傲慢な考えです。神様は創造主であり、人間は被造物です。神様は主人であり、人間はその所有物です。神様は創造主であり、主人なので、ご自分のものを、ご自分の御旨に従って、作り、用いる権限を持っておられます。自分の民ではない者を自分の民とし、愛さない者を愛する者として、滅ぼすために備えられた怒りの器を、ご自分の栄光の豊かさを表す憐れみの器として用いられる権限を持っておられます。神様は主権者ですが、気まぐれな意地の悪い陶器師ではなく、優れた完全なる主権者です。私たちは、救いの問題だけでなく、生活の全ての問題においても、神様の主権を深く受け入れなければなりません。神様の行われることに対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と反問する人がいます。神様の主権を認めない心が固い岩となって、つまずきやすくするのです。「神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。」(20)。創造主である神様の御前で口を閉じて、その方の主権と行いを深く受け入れ、聞き従い、信じて、感謝することが、正しい姿勢です。
 神様は、ユダヤ人だけではなく、異邦人の中からも、ご自分の民を立てられました(24)。神様は、ご自分の民ではない人をご自分の民として、神様の敵だった人を呼んで、愛する者と呼ばれました。自分が優れているから、神様に召され、愛する民になったのではありません。自分が素晴らしいから、今でもイエス様の中に残っているのでもありません。神様が残されたからです(27,28)。私に臨む驚くべき恵みを賛美します。


適用:神様の主権に対して、言い逆らうのですか

一言:神様は陶器師、私は粘土



2020年 01月 30日 (木)

ローマ人ヘの手紙9:30-10:13(9)
イエスを信じるなら、救われる

 神様に対するユダヤ人たちの情熱は大きなものでした。律法を完全に守って生きようとした彼らの努力は、他の人たちを驚かせました。しかし、彼らの熱心は正しい知識を伴うものではありませんでした。ユダヤ人たちは無知であり、神様の義に服従しませんでした。自分の義を立てようとするその大きな情熱が、むしろ神様の義を遠ざけてしまいました。イエス様は、ご自分を信じる者には救いですが、信じない者にとっては、つまずきの石だと言われました。今日も、ひたむきな情熱を見せる異端と、他の宗教家たちがいます。彼らの情熱は、本当に尊敬に値するほどであり、彼らの中には、立派な生活をする人も、少なくありません。しかし、熱心であることよりも、さらに大切なのは、正しい知識を持つことです。正しい知識がない情熱は、自分の義だけを立てるためだけであって、必ず、イエス・キリストにつまずいてしまいます。私たちは、自分の義を立てる無知な情熱に従うことより、神様の義を成し遂げられるイエス・キリストに服従しなければなりません。また、正しい知識がない人々に、正しい知識である福音を伝えることに力を入れなければなりません。
 律法をよく行ない、その義によって生きようとするのは、愚かなことです(5-7)。救いの道は、遠くにあるのではなく、私に伝えられた福音の御言葉にあります。イエス様を、主として、キリストとして、心で信じ、口で告白するなら、救いを受けます。「彼に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と約束されました。自分自身を考えると、恥ずかしいことが多く、救いの確信がゆれ動く時もあります。しかし、イエス様を主として信じ、告白する時、恥を受けずに、救いに至ります。この驚くべき恵みの中にいるにも関わらず、救いを得るために、天に上り、地の奥底に下って行こうとするのは愚かなことです。信仰による義をくださった神様に感謝します。


適用:自分の義を表そうとしますか

一言:神様の義を信じましょう


<<(1)    次のページ(2)    (8)>>

聖書別日ごとの糧