聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2020]

2020年 02月 01日 (土)

ローマ人ヘの手紙11:1-12(11)
彼らがつまずいたのは、世界の富となり

 キリストを拒んだイスラエルを見ると、神様は、ご自分の民をお捨てになったように思え、イスラエルは、誰もキリストを探さないように思えます。しかし表面から見るのとは違います。イエス様はパウロに尋ねて来られ、彼を救ってくださいました。エリヤは、「私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」と訴えた時、神様は、バアルにひざをかがめていない男子七千人を残しておいた、と言われました。今も、恵みの選びによって残された者がいます(5)。私たちは、うわべに見える時代の姿と、人々の反応を見ながら、絶望したりします。しかし、神様は、この時代にも働いておられ、残った者を置かれました。見えるものが全てではありません。今も働いておられる神様を信じましょう。
 イスラエルがキリストの恵みの福音を拒んだ結果、異邦人に豊かな救いの恵みが臨みました。では、イスラエルは完全に捨てられたのでしょうか。神様は、異邦人に豊かな救いの恵みを施されることで、イスラエルを妬ませ、彼らも救おうとされます。このように、人間の罪と頑なな心にも関わらず、神様はご自分の救いの御業を失敗させすることなく、成しておられます。悪を善に変え、人間の失敗とあやまち、妬みまでも用いて、世界を豊かにされます。福音を受け入れたクリスチャンだからといって、完全ではなく、失敗と短所が多くあります。クリスチャンの集まりである教会も不完全なものであり、多くの問題を抱えています。それにも関わらず、人間のつまずきと失敗を世界の豊かさに変える神様、人間の過ちと妬みさえも、善に用いられる神様によって、救いと恵みと望みの御業は続いています。望みは、人間の善と行いにあるのではなく、ただ、神様の善と摂理と働きにあります。


適用:見える実がなく、失望していますか

一言:神様は失敗しない



2020年 02月 02日 (日)

ローマ人ヘの手紙11:13-24(18)
誇ってはいけません

 異邦人のクリスチャンの間では、ユダヤ人たちを蔑み、非難する人たちがいたようです。ユダヤ人たちは出来が悪く、それに比べ、自分たちは大変優れているかのように、高ぶり、誇っていた人々がいたようです。パウロは彼らに、誇ってはならず(18)、高ぶってはならない、と警告しました(20)。事実、彼らは野生種のオリーブの木でしたが、良いオリーブ(イスラエル)に接ぎ木され、その根の養分をともに受ける者になりました(16)。異邦人たちの救いが、突然、どこからともなく落ちてきたのではありません。旧約時代から続いてきたユダヤ人たちの信仰にあずかったのであり、恵みを受けたのです。今の自分が、まるで自分自身の力によって出来たかのように、あるいは、自ら生まれ出た存在であるかのように、勘違いしてはいけません。自分が、霊的な遺産を受け継いで来た多くの先祖たちの犠牲の上にあり、彼らの恵みを受けている者であることを知らなければなりません。私たちは心を高ぶらせることより、負債を負った存在であることを知り、いつも感謝し、謙遜な心で生きなければなりません。
 神様は、心を高ぶらせた台木の枝を、惜しまれませんでしたが、接ぎ木された枝に関してはどうでしょうか。台木の枝が折れたのを見て非難することより、むしろ恐れなければなりません。つまずく人々を見て非難するのではなく、恐れるべきです。私たちは、神様のいつくしみときびしさを見なければなりません(22)。謙遜に、神様のいつくしみにとどまるなら、神様は計り知れないいつくしみを施してくださいます。しかし、謙遜にならず、誇って心を高ぶらせるなら、台木の枝のように折られます。神様は慈しみ深い方ですが、厳しい方でもあり、厳しくもありますが、慈しみ深いのです。この二つのことをよく見れば、神様の恵みにあずかることができます。


適用:心を高ぶらせていないでしょうか

一言:むしろ恐れなさい



2020年 02月 03日 (月)

ローマ人ヘの手紙11:25-36(32)
すべての人をあわれもうとして

 パウロは、救いの御業の神秘性について言っています。異邦人の完成のなる時まで、イスラエル人の一部がかたくなになっていますが、結局、全てのイスラエルがみな救われるようになるのです。その最初の根拠は、イスラエルの救いを約束された神様の御言葉です(26,27)。二つめは、神様の召されに後悔がないからです。イスラエルは、福音において、神様と敵対関係にありますが、選びによれば、先祖たちのゆえに神様の愛を受けている者です。神様は、選び召された民族を、決して捨てません。三つめは、神様のあわれみのためです。イスラエルの不従順によって、異邦人たちが憐れみを受けるようになりました。異邦人が憐れみを受けたなら、イスラエルはどれだけさらに憐れみを受けるでしょうか。神様が全ての人を不従順のうちに置かれたのは、全ての人々に、憐れみを施そうとされるからです。人間は頑なですが、神様は良い御旨と主権の中で、救いを成し遂げられます。パウロは最初、不従順なイスラエルの問題で、悩みました(9:1,2)。しかし今、イスラエルの救いを確信します。神様の主権と憐れみに基づいた救いの御業の秘密を悟ったからです。私たちは、頑なな人を助けようとして、落胆してしまいがちです。しかし彼らをあわれみ、救われる神様を思う時、望みを持って、祈ることができます。
 救いの御業の神秘を悟ったパウロの心に、感激の賛美が響きます。神様の知恵はどれだけ深く、その方の知識は、どれだけ豊かなのでしょうか。誰が神様の心を知り、その方の代弁者となるでしょうか。すべてのことが主から出て、主によって、主に立ち返るようになります。人の薄っぺらな知恵と知識によって、神様の救いの御業を理解することはできません。私たちが、神様の深い知恵の前に謙遜に聞き従う時、一人のたましいを救う神様の御業に用いられることができます。


適用:何に頼って、神様の救いの御業に仕えるのか

一言:ただ、神様の憐れみに


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