2015年イースター修養会第2講 (By 金ヨハネ)

神様を愛し、人を愛しなさい

御言葉:ヨハネの福音書21:1-25
要 節:ヨハネの福音書21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

昨日は寺崎アブラハム牧者が伝えたメッセージを通して、死の力を打ち破り、よみがえられたイエス様について学びました。よみがえられたイエス様は今も生きておられ、信じる者に喜びと平安を与えてくださいます。
今日は復活されたイエス様を信じる者が何をするべきかについて学びたいと思います。イエス様はマタイの福音書24章で世の終わりの前兆について言われた時、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる」と言われました。先週、ケニアではイスラム過激派の集団が、大学のキャンパスを襲撃して148人を殺害する事件が起きました。イスラム過激派組織「アルシャバーブ」は犯行を認めていて、「イスラム教徒は解放し、キリスト教徒を殺害した」と話しています。人は愛され、愛する時に幸せを感じます。愛が冷たくなると、幸せもなくなります。イエス様は罪人を愛し、罪人を救うためにご自分のいのちを捨ててくださいました。今日学ぶヨハネの福音書21章には、よみがえられたイエス様が弟子達のところに訪ねて来られ、彼らの必要を満たし、彼らとの愛の関係性を回復してくださる内容が書いています。特に、イエス様を三度知らないと言ったペテロとの関係性を回復し、イエス様の羊を飼う使命を与えてくださいます。この時間、神様を愛すること、人を愛することについて学んでみましょう。

1、2節をご覧ください。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子は、主がガリラヤへ行くように言われた御言葉に従い、ガリラヤに来ていました。3節をご覧ください。シモン・ペテロが他の弟子たちに言いました。「私は漁に行く。」すると、彼らは「私たちもいっしょに行きましょう」と言って出かけて、小舟に乗り込みました。彼らのうち何人かは、元々ガリラヤ湖で魚を取る漁師でした。ところが、夜通し働いても何もとれませんでした。夜通し働いても何の成果がなかった時、どんな気持ちだったでしょうか。夜が開けて明るくなっていましたが、彼らの心は暗くなっていたでしょう。「ああ!何をしてもうまくいかないね」と思って意気消沈していたでしょう。とても疲れていたし、お腹もすいていたでしょう。
そんな時、誰が彼らのところを訪れましたか。4節をご覧ください。夜が明けそめたとき、イエス様は岸べに立たれました。けれども弟子たちには、それがイエス様であることがわかりませんでした。その時、イエス様は彼らに言われました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは何も取れなかったので、力なく答えました。「はい。ありません。」イエス様は彼らに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろしました。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができませんでした。夜通し網をおろし続けても一匹の魚もとれなかったのに、イエス様から言われたとおりにすると、一発でおびただしい魚が取れたのです。先週1日に入社した金ヨハネ牧者は次の日から営業の仕事を始めました。最初の日には先輩と一緒に回りましたが、ヨハネ牧者にも一人で営業をする機会が与えられたそうです。ところが、一発目で契約が取れたそうで、喜んでいました。
私たちは朝早くから夜遅くまで働いても、自分が立てた目標を達成することはできないことがあります。熱心に勉強したのに、受験の日に体調を崩してしまい、目指す大学に入れないことも起こります。努力しても目指していた職場でのポストにつくことができない時もあります。人間の知恵や力に頼った時、それが無益な働きになる場合も多くあります。箴言16:9には次のような言葉があります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」弟子たちは夜通し働いても何も取れませんでした。しかし、主の御言葉に従った時、網を引き上げることができないくらいおびただしい魚を取りました。しかも網がやぶれなかったように、すべてはうまくいきました。このように主の御言葉に従う時、生きておられる主は私達に驚くべきことをしてくださいます。主の御言葉に聞き従う人は、水路のそばに植わった木のように時が来ると、実がなり、その葉は枯れません。その人は、何をしても栄えます。主は私達の失敗を挽回させてくださいます。私達の必要を満たしてくださいます。すべてのことを働かせて益としてくださいます。私たちが主の御言葉に聞き従い、おびただしい魚を取る体験ができるように祈ります。金ヨハネ牧者は5月に行われる営業トーナメントで1位を目指しています。彼が神様に頼り、おびただしい契約が取れるように祈ります。それを通して生きておられる主に出会うことができるように祈ります。
網をおろして、おびただしい魚を取った出来事は、弟子達が三年ほど前に経験した出来事と余りにも似ていました。そこで、イエス様の愛されたあの弟子、ヨハネがペテロに言いました。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込みました。湖に飛び込む時には、上着を着ていた人は脱ぐことが普通です。私も服を着たまま泳いだことがありますが、服が重くなって泳ぐのに大変でした。ところが、ペテロは上半身裸でしたが、わざわざ上着を着て、水の中に飛び込みました。彼には、主にお会いするのに裸でいることができなかったでしょう。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来ました。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからです。
イエス様は弟子たちをどのように迎えてくださいましたか。9-13節をご覧ください。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見ました。イエス様は彼らに言われました。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げました。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいでした。それほど多かったけれども、網は破れませんでした。イエス様は彼らに言われました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいませんでした。イエス様は来て、パンを取り、彼らにお与えになりました。また、魚も同じようにされました。
イエス様は母親が朝早く起きて子供のために食事を用意するように、炭火焼の美味しい魚とパンを用意して弟子たちを迎えてくださいました。そして、彼らに言われました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」イエス様が食事に招いても弟子たちは申し訳なく思って食べようとしなかったのか、イエス様は直接に彼らにパンと魚をお与えになりました。イエス様は意気消沈していた彼らを慰め、励ますために食事を用意してくださいました。イエス様はいつも弟子達の必要を満たしてくださいました。弟子たちは主の恵みを裏切ったのにも関わらず、イエス様は弟子達を相変わらず愛してくださいました。弟子達はイエス様を見捨てましたが、イエス様は決して彼らを見捨てませんでした。私たちは信仰生活において、しばしば躓いたり、失敗したりすることがあります。その時、自分はもう駄目だと言って、自暴自棄になったり、信仰生活まで放棄してしまうのは決して正しいことではありません。私たちは本当は初めから駄目な人間です。しかし、主はこのような駄目な人間を救ってくださいました。放蕩息子のような者を見捨てることなく愛してくださいました。主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。私たちが意気消沈していた時、私たちのところに来てくださり、慰め、力づけ、必要を満たしてくださいます。主の変わらない愛に感謝します。
15-17節をご覧下さい。彼らが食事を済ませたとき、イエス様はシモン・ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエス様に言いました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエス様は彼に言われました。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエス様は再び彼に言われました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエス様に言いました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエス様は彼に言われました。「わたしの羊を牧しなさい。」イエス様は三度ペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエス様が三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエス様に言いました。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエス様は彼に言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」
イエス様から三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたペテロの心はどうだったでしょうか。イエス様は十字架の苦しみを受ける前、弟子達に言われました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。」その時、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と言いました。ところが、イエス様が言われた通り、その日の夜、ペテロは三度もイエス様を知らないと言いました。主が「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と三度言われた時、ペテロはあの日の悲しい出来事を思い出したでしょう。ペテロの心は砕かれました。彼は、もうあの日のように「主よ。私はこの人たちより二倍はあなたを愛します」と答えることはできませんでした。その代わりに「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。彼は謙遜に愛の告白をしています。すると主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。羊はペテロのものではなく、主のものです。イエス様がご自分のいのちを代価として払って買い取ってくださった羊です。その羊を飼うことをペテロに任せてくださるのです。本当に信頼する者ではなければ、自分の大事なものは任せられません。詩編34:18は次のように言っています。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」主は心の打ち砕かれたペテロにご自分の羊を任せてくださいました。「飼う」「牧す」とは、食べ物の世話をし、見張りをし、あらゆる危険から守って養い育てることです。つまり他の人のために生きること、他の人を愛することです。イエス様を愛する人が必ずするべきことは羊を養うことです。羊を養うことはイエス様に対する愛の表現です。その愛は、ほかの人の面倒を見ることにおいて具体化されるのです。
私は目指していた職場でのポストにつくことができなくて苦しんだ時がありました。昇進しようと三回もチャレンジしましたが、失敗しました。私より10歳下の人が上司になったこともありました。その後に上司になった人は、私をやめさせようといろんな手段を使って圧迫しました。そして、今の上司は以前私の部下であった人です。このような出来事によって私の心は打ち砕かれました。私は世のものに縛られていた心を悔い改め、天上のことを思うようになりました。仕事をやめたいと思った時もありましたが、耐える力が与えられ、今は楽しく職場生活をするようになりました。三年前、主は?テモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」という御言葉を与えてくださいました。私はこの御言葉に従い、羊を飼うことができるように祈りました。その年、中村政国兄弟、中村秀行兄弟、全ダビデ兄弟と聖書勉強をするようになりました。そして、去年は蛇平聖也兄弟と蛇平光則兄弟を、今年は今井想野兄弟を聖書勉強に導いてくださいました。先週礼拝の時には中村政国兄弟が洗礼を受けました。中村さんは毎週金曜日の夜7時に聖書勉強をしていますが、いつも早く教会に来て私を待っています。仕事がある時を除いては毎週礼拝にも参加しています。本当に良い羊です。私は彼が洗礼を受けるようになって本当に嬉しく思いました。先週の礼拝には私と聖書勉強をしている4人の兄弟たちが参加しました。中村秀行兄弟は日曜日に好きなサッカの練習や試合がありますが、礼拝に参加することを決断しました。蛇平聖也兄弟と今井想野兄弟も良い羊です。二人ともハンサムな羊です。CBF子ども達に親しまれ、礼拝が終わると一緒に遊んでくれます。昨日は4年くらい前に一回聖書勉強をしたことがある鈴木洋光兄弟から、「今度顔を出させてください」とラインで連絡が来ました。私は今日の御言葉を黙想しながら、主は尊い羊を任せるために私の心を打ち砕かれたことを悟りました。そして、私を信頼して多くの羊を任せてくださったことを悟りました。すると、私の心は癒され、感謝と喜びで満ち溢れました。今年、私は心優しくへりくだっておられるイエス様を学ぶことを祈っています。私が良い牧者であるイエス様を良く学び、任せてくださった兄弟たちによく仕えることができるように祈ります。
18節をご覧下さい。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」この謎めいた主の御言葉について、著者ヨハネが解説しています。19節をご覧下さい。「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。」ペテロは今まで自分の願うとおりに生きて来ました。言いたいことがあれば遠慮なく言いました。しかしこれからは羊の牧者として自分を犠牲にする生活をしなければなりません。牧者としてのペテロの道はやがて殉教に至ります。そしてペテロは殉教の死を成し遂げることによって神様の栄光を現します。こうお話しになってから、主はペテロに言われました。「わたしに従いなさい。」イエス様は牧者として模範を示してくださいました。ペテロもこのよい牧者であるイエス様に見習う生活をするように命じられました。
ペテロは振り向いて、イエス様が愛された弟子があとについて来るのを見ました。この弟子はあの晩餐のとき、イエス様の右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者です。ペテロは彼を見て、イエス様に言いました。「主よ。この人はどうですか。」ペテロがこのように主に尋ねたのは、ヨハネはイエス様を知らないと言わなかったから、自分よりも良い死に方をするのではないかと考えたかも知れません。しかし、その動機が何であったにせよ、主は彼の質問に対して、次のように言われました。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」他の人と比べないで「あなたはわたしに従いなさい」と言われたのです。主に従って行く者達にとって脇見をすべきではないことを教えてくださいます。イエス様が私たちを召されることは個人的なことです。ですから、イエス様と自分との縦の関係が大切です。神様が私に願うことは何かを考えてその御心に従うことが大切です。
23節をご覧下さい。そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡りました。しかし、イエス様はペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのです。
25節をご覧下さい。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」主イエス・キリストのなさった御業と恵みがいかにすばらしいものであるかということは、この世界と比較しても到底比較できないほどのものです。

ヨハネはヨハネの手紙第一4:7-11節で次のように言いました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」神様は愛です。神様が私達をどれほど愛しておられるかを知る人は幸いな人です。さらに、神様を愛し、人を愛する人は本当に幸せな人です。神様は私達を信頼して「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。私達が任せてくださった羊をよく養うことができるように祈ります。