2005年 07月 26日 (火)
神様を喜ばせる生活
Ⅰ.聖潔を得させる生活(1-8)
クリスチャンが第一に力を尽くして闘争しなければならないことは、イエス様を見倣って聖なる生活をすることです。神様がイエス・キリストの血潮という代価を払って私たちを買い取ったのは、私たちに聖潔を得させるためでした。私たちは不品行を避け、聖く、尊くからだを保つ中で妻を娶らなければなりません。異邦人のように情欲におぼれて、不倫を行なう者はさばきを受けるようになるのです。神様が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。それでこの命令を拒む者は、人を拒むのではなく、神様を拒むことになるのです。
Ⅱ.さらに兄弟を愛しなさい(9,10)
テサロニケの聖徒たちは兄弟愛については、何も書き送る必要がないほど、互いに愛し合っていました。しかしパウロは「ますますそうであってください」と言います。兄弟愛は、いくら行なってもやり過ぎるということがありません。
Ⅲ.自分の手で働きなさい(11,12)
聖徒たちは熱心に働いて自分の責任を果たさなければなりません。怠けて自分のこともできない人は外の人々に対してもりっぱにふるまうことができないだけではなく、乏しい生活をするようになるのです。
祈り:主よ!私が主を喜ばせる生活を熱心にできなかったことを悔い改めます。これからは熱心に聖なる生活をし、兄弟を愛し、熱心に働く者となるように助けてください。
一言:神様の御旨は私たちが聖潔を得ることである。
2005年 07月 27日 (水)
キリストの再臨
Ⅰ.このことばをもって互いに慰め合いなさい(4:13-18)
イエス様の再臨と聖徒の復活を信じない人々は根本的に望みがないために、悲しみ絶望するしかありません。それは死が人生の終着駅だと考えているからです。
しかしイエス様は約束のとおりに、必ずまた来られます。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神様のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。その時には、信仰によって生きずに自分勝手に振る舞ってきた人には恐ろしいさばきの日となりますが、私たちクリスチャンには最も大きな望みの日となります。その時死者がよみがえり、生き残っている者が空中に引き上げられ、主と会い、神様の御国でいつまでも主とともにいることになるのです。これは私たちクリスチャンの望みです。
Ⅱ.目をさまして、慎み深くしていましょう(5:1-11)
世の人々は肉の欲望を満たして「平和だ。安全だ。」と言って誇ります。しかし盗人のように突如として滅亡が彼らに襲いかかるのです。私たちは光の子どもです。それで私たちは光の子どもらしく霊的に目をさまして、慎み深くしていなければなりません。信仰と愛で武装し、救いの望みを固く掴まなければなりません。
祈り:主よ!私が気をひきしめて再び来られる主を待ち望み、目を覚まして、慎み深く生活できるように助けてください。
一言:再臨信仰
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