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2021年 01月 01日 (金)

ペテロの手紙第一1:22-2:3(2)  <新年特集1>
霊の乳を慕い求めなさい

 聖徒たちは、新しく生まれ変わった後、成長をし続けなければなりません。では、どのように継続的に成長していけるのでしょうか。ペテロはこう言います。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(1:23)朽ちない種とは、神様の御言葉のことです。生きた、いつまでも残る神様の御言葉です。種の中にはいのちがあります。豆の種を植えると、豆の芽が出て、やがて豆の実がなります。このように、御言葉の種も、私たちの中に植えられると、私たちを成長させ、救いを得させます。私たちの肉体は、いつかしおれる草のようです。しかし、私たちの中に植えられた主の御言葉の種は、とこしえまでも立ちます。

 では、新しく生まれ変わった聖徒たちは、どのように生きていくべきでしょうか。すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てなければなりません(2:1)。そして、永遠の主の御言葉を慕い求めるべきです。ペテロは御言葉を、純粋な霊の乳にたとえました。生まれたばかりの乳飲み子が必死に乳を慕い求めるように、私たちも、成長する為には、必死に純粋な霊の乳を慕い求めるべきです。御言葉を知りたいと切に願い、いつも御言葉に飢えた者のように慕い求めるべきです。頂いた御言葉を深く黙想し、その御言葉の中の豊かな栄養分をいっぱい摂るべきです。そうすることで、乳飲み子が成長するように、聖徒たちはすくすくと育ちます。やがて、救いの完成に向けてキリストの満ち満ちた身丈まで成長します。いつくしみ深い主のように、兄弟を愛するようになります。信仰生活が長いのに内面が成熟していないキリスト人であってはいけません。主がいつくしみ深い方であることを、しっかりと味わうべきです。私達が、成熟したキリスト人となれるよう、イエス様の十字架を学ぶ者、霊の乳を慕い求める者として、今年一年間を過ごせるように祈ります。



適用:御言葉をどれほど慕い求めていますか

一言:乳飲み子のように



2021年 01月 02日 (土)

ペテロの手紙第一2:4-10(9)   <新年特集2>
王である祭司

 当時の信者たちは、イエス様を信じるという理由だけで、人々から疎外され、故郷からは散らされ、捨てられたように貧しく生きていました。こうなると、恥ずかしく、悲しく、寂しくなるしかありません。ところが、ペテロはこのような聖徒たちに、信じる者としてのアイデンティティについて話し、励ましています。ペテロは、信者の本来の身分が何であると教えています。

 一つ目は、尊い生ける石という身分です。聖徒たちは、人には捨てられても、神には選ばれた、尊い生ける石です。イエス様も、人に捨てられました。しかし、神様はイエス様を選ばれ、神の国の尊い要石に据えられました。神様は聖徒たちを、イエス様と一緒に神の国を立てる尊い石とされました。神の御国にはなくてはならない尊い生ける石とされたのです。聖徒たちがこのような自分を知る時、聖徒としてのアイデンティティを持つことができます。

 二つ目は、王である祭司という身分です。5節をみると、「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」とあります。旧約時代、祭司職はもっとも尊敬される存在でした。信者たちは、そのような祭司となったのです。しかも、神様に選ばれた王である祭司となりました。また聖なる国民、神のものとされた民となりました。信者は王である祭司らしく、聖なる国民らしく、神のものとされた民らしく振舞い、生きていくべきです。たとえこの世では、散らされ、苦難にあうことがあったも、王のような品格を持つべきです。祭司として、神の国の民らしく、アイデンティティと誇りを持って、神の国の栄誉を声高らかに伝えるべきです。神の深いあわれみを宣べ伝えるべきです。



適用:キャンパスにおける私たちはどんな存在ですか

一言:神のものとされた民、王である祭司



2021年 12月 31日 (金)

テサロニケ人への手紙第一5:16-28(18)   <年末特集2>
神様があなたがたに望んでおられること

5章前半部分では、パウロは、テサロニケ教会の聖徒たちに主の再臨について言及しています。そして、主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいる聖徒たちがどのように生きるべきかについて述べています。今日の箇所では、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝することが、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることだと言っています。

私たちは、喜べることがあれば喜び、祈りたい時に祈り、感謝できることがあれば感謝する、ということをしがちです。しかし、パウロは「いつも、絶えず、すべてのことに」と言いました。どのようにして、このようなことが出来るのでしょうか。クリスチャンは、キリスト・イエスにあって生きていているので、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することが出来ます。「いつも喜んでいなさい」というのは、盲目的に喜びなさいという意味ではなく、主にあって生き、主にあって考えなさいという勧めです。祈るというのは、神様に対する全き屈服です。また主との出会いです。ですから、「絶えず祈りなさい」という御言葉は、いつも神様に頼り、神様と交わりなさいという意味です。そして、すべてのことにおいて感謝しなければなりません。絶えず祈る時、私たちはすべてのことにおいて感謝することが出来ます。すべてのことにおいて感謝する時、私たちは喜ぶことが出来ます。いつも喜んでいること、絶えず祈ること、すべてのことにおいて感謝することは、クリスチャンの生活の三つの柱です。今年一年を振り返りながら、感謝課題を探して神様に感謝の祈りをささげることが出来るように祈ります。そうする時、私たちに満ち溢れる喜びが臨まれることでしょう。



適用:私たちに対して神様が望んでおられることは何でしょうか

一言:喜び、祈り、感謝


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