聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2020]

2020年 02月 08日 (土)

ローマ人ヘの手紙14:1-12(1)
その意見をさばいてはいけません

 信仰には、本質的な部分と、そうでない部分があります。本質的な部分では、私たちは真理に対して、態度をはっきりとさせておかなければならず、妥協してはいけません。しかし、本質的でない部分においては、理解と寛容の精神を持たなければなりません。信仰生活をしながら、本質的でないことでお互いにさばいてしまうことが、よく起こります。今日の本文の当時には、食物を食べることと、特定の日を尊ぶことにおいて、このように兄弟をさばいたり、軽んじる問題がありました。私たちは、人によって、信仰の水準が互いに違うことを、まず知っておかなければなりません。それで、意見が違うのです。自分の基準と考えだけで、さばいてはいけません。
 さばいてはならない理由は、第一に、神様がその人を受け入れてくださったからです。自分が見た時、心に引っ掛かり、気に入らなくても、神様が受け入れた兄弟であれば、どのようにして彼をさばくことができるでしょうか。他人の使用人を裁くようなものであり、これは自分の身の程をわきまえない越権行為のようなものです。第二に、さばくことは、信仰の最も本質的なことを害することだからです。各自の信仰の水準や考えが、少し違っていても、私たちはみな主のものです。自分のためではなく、主のために、主の栄光のために、信仰生活をしている人たちです。兄弟をさばくことは、自己満足を追求することであり、神様の栄光を遮る行為です。第三に、私たちはみな、神様のさばきの前に立つようになる者です。みなが、神様の御前で、各自、自分の人生を決算するようになります。むやみに兄弟をさばいたり、軽んじることはできません。謙遜に自分を顧みることに、力を入れなければなりません。


適用:弱い者にどのように接しますか

一言:受け入れなさい



2020年 02月 09日 (日)

ローマ人ヘの手紙14:13-23(13)
兄弟にとって、さまたげになってはいけません

 クリスチャンは、信仰の中で自由を得ています。しかし、自分の自由が、ある兄弟には、さまたげになることがあります。食物の場合、どの食物であっても、御言葉と祈りによって、きよくなっていることを信じ、感謝することで食べることができます。しかし、ある食物を汚れた物として考える兄弟には、それはつまずきとなります。自分の信仰では、食べることができますが、それが兄弟をつまずかせるのであれば、食べてはいけません。主が身代わりとなって死んでくださった兄弟を、食物のことで滅ぼしてはなりません。ちょっと食物が食べられないからと言って、それが一体何になるでしょうか。神様の御国は、飲み食いする為にあるのではなく、ただ、聖霊の中で、義と平和と喜びを分かちあうことにあります。食べないこともあるし、飲まないこともあるし、兄弟をつまずかせないためなら、それをしないことは良いことです。全てのものはみな聖いのですが、もし、信仰が弱い兄弟につまずきとなるのに食べるなら、それはその人の罪となります。信仰によって、行わなかったからです。
 自分に信仰があって、自由があるからと言っても、自分の行ないがほかの兄弟にとってつまずきとなったり、さまたげになったりしないか、注意しなければなりません。自分は信仰があるからといって、むやみに行動してはいけません。弱い兄弟を配慮しなければなりません。何としても和解をはかり、お互いの信仰を立てることに、力を入れなければなりません。このような姿勢で主に仕える者が、神様を喜ばせ、人からも称賛されます。


適用:信仰があるからといって、むやみに行動していないですか

一言:信仰が弱い兄弟を配慮しよう


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